理想の夫婦仲!明智光秀の妻『妻木煕子』の人物像とエピソード集

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戦国時代の女性たち

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

本能寺の変を起こし、織田信長を倒した明智光秀。

謀反人としての側面が取り上げられがちな光秀ですが、家庭内での奥さんとの関係は非常に良好なものでした。

 

明智光秀の妻『妻木煕子(つまき ひろこ)』

良妻賢母としても知られる煕子と光秀の夫婦仲は、現代人でも憧れるような関係でした。

 

この記事では、光秀と煕子の心温まるエピソードをご紹介します。

 

 

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光秀と煕子

煕子の出自

煕子は美濃国(みののくに、現在の岐阜県)の妻木城を本拠としていた妻木氏の出身と言われています。

いつ生まれたのかはハッキリしておらず、謎の多い女性でもあります。

 

天正四年(1576年)に、光秀が煕子の病気が治るよう、神社に祈祷を行っている記録がありますが、その年に病没したと伝わっています。

光秀が本能寺の変を起こす、約6年前です。

 

光秀に嫁いだ時期もハッキリしていないのですが、これからご紹介する美談などから考えると、信長に仕えて名を挙げるより前のことであったと思われます。

 

 

顔の痘痕(あばた)を気にしなかった光秀

煕子は光秀に嫁ぐ直前に、疱瘡(天然痘)という病にかかってしまいました。

疱瘡は、皮膚に疾患を起こす命に係わる病気で、例え治癒したとしても、患部に痘痕(あばた)が残ってしまいます。

 

煕子の病は幸いにも完治しましたが、左の頬に大きな痘痕が残ってしまいました。

これから嫁入りするという時期にも関わらず、顔に大きな痘痕が出来てしまった煕子は、自らの姿を恥じ、輿入れに抵抗を感じていました。

 

しかし、光秀はそんなことは一切気にせず、煕子を妻に迎えたと伝わっています。

 

 

煕子を背負っての逃避行

弘治二年(1556年)『明智城』が、斎藤義龍という武将の攻撃よって陥落しました。

 

光秀は城から落ち延びるために逃亡を図るのですが、この時、煕子のお腹には赤ん坊がおり、激しい逃避行など出来ない状況でした。

 

そこで光秀は、身重の煕子はおんぶしながら長い距離を移動し、越前国(えちぜんのくに、現在の福井県)へ逃げ延びたと言われています。

 

 

自慢の黒髪で光秀を助けた煕子

何とか越前に逃げ延びた光秀と煕子は、朝倉家に仕えることになります。

ですが、浪人の状況から、朝倉家に仕えたばかりの光秀は、まだまだ地位も低く苦しい生活を送っていました。

 

そんな中、朝倉家の重臣たちが宴を催すことになり、光秀が幹事に任命されました。

自分を売り込む大きなチャンスを手に入れた光秀でしたが、生活は苦しいまま、宴のお酒や肴を用意する費用がありません。

 

困り果てた光秀を、いつも側近くで見つめていた煕子は大きな決断をしました。

 

自らの美しく長い黒髪をバッサリ切り落とし、その髪を売ることで宴の費用を捻出しました。

 

この時代の武家の女性にとって、長い黒髪は美しさの象徴でもあり、とても大切なものです。

時代劇なんかでも、戦国時代の女性は、みんな長い黒髪だと思います。

出家でもしない限り、髪を失うなんてことはありえないことです。

 

その髪を夫のために失うことすら厭わなかった煕子の覚悟、そして光秀への愛を感じることが出来ます。

このエピソードは、光秀と煕子の夫婦仲を伝える美談として、現在でも広く知られています。

 

 

煕子が生きていたら本能寺の変は起こっていたか?

そんな煕子ですが、光秀よりも先にこの世を去ることになりました。

享年は分かっていませんが、光秀が本能寺の変に至る、約6年前です。

 

光秀が打倒 織田信長を決意した時、もし煕子が生きていたら、本能寺の変は起こっていただろうか?と夢想する時があります。

とても良好だった夫婦仲、光秀を愛した煕子は、彼の暴挙をどう受け止めただろうか?

 

おそらく、光秀の意志を尊重していただろうと思います。

煕子が生きていても本能寺の変は起こっていたと思います。

強い覚悟を持って、光秀と運命を共にする道を選んでいたのではないかと思います。

歴史は変わらなかったと思います。

 

しかしながら、後の歴史に大きな影響を与えることいなる、光秀と煕子の血を受け継いだ一人の女性がいます。

 

細川ガラシャです。

 

ガラシャの最後は、女の意地を貫き通した壮絶なものでした。

この固い意志こそ、煕子のDNAなのではないかと思えてなりません。

 

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光秀と煕子、そしてガラシャから伝わってくること

明智光秀は、歴史を大きく動かした本能寺の変を起こした大謀反人です。

これは紛れもない事実です。

 

そういった謀反人には『悪』のレッテルを貼られることが普通です。

しかし、光秀と煕子の夫婦仲からは、全く『悪』のイメージが伝わってきません。

むしろ美談ばかりが伝わっています。

 

それどころか、謀反人である光秀自身にも、歴史的に名高い悪党のようなイメージはなく、むしろ人気の方が上回っているんじゃないかとさえ思います。

また、謀反人の娘であるガラシャも人気のある女性です。

 

この、現在の光秀像やガラシャ像には、煕子の影響が少なからず関係しているのはないかと感じます。

煕子との美談があるからこそ、光秀には大謀反人だけではないイメージがある。

煕子の娘だからこそ、ガラシャには大謀反人の娘だけではないイメージがある。

 

煕子の存在は、夫と娘のイメージに一役買っていると僕は思っています。

 

煕子の内助の功は、光秀のみならず、現代にまで大きな影響を与えていると言えるのではないでしょうか。

 

他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。

ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。