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拓麻呂です。
笹の才蔵、あるいは槍の才蔵の異名を持つ戦国武将『可児才蔵』。
『才蔵』は通称で、本名は『可児吉長』。
戦国時代を代表する豪傑で、そのエピソードには事欠かない人物です。
そんな才蔵は見せた、関ヶ原での大奮戦と、彼ならではの個性的な行動をお届けします。
笹の才蔵
関ヶ原の戦いでの戦果
1600年9月15日、関ケ原の戦い。
可児才蔵は徳川家康に味方し、東軍として参戦しました。
才蔵はこの時、福島正則に仕えていました。
福島正則が、東軍の先鋒を任された武将です。
当然、才蔵も先鋒の一員として、正則を補佐しながら奮戦。
(正確には、井伊直政の抜け駆けにより、一番槍は井伊隊になってしまった)
才蔵は、槍の使い手として名高い宝蔵院胤栄(ほうぞういん いんえい)から『宝蔵院流槍術』を学んでいたので、槍の扱いが巧みでした。
その槍術を駆使し、才蔵はバッタバッタと敵をなぎ倒していってのでしょう。
敵17人を討ち取る大活躍を見せました。
この討ち取った数は、東軍の武将で最も多かったと伝わっています。
この時に、討ち取った首の口に笹をくわえさせ目印にしたことから、『笹の才蔵』の異名で呼ばれるようになりました。
何度も主君を変えた才蔵
そんな才蔵ですが、実は主君を何度も変えています。
美濃の生まれだったこともあり、最初は美濃の『斎藤龍興』に仕えました。
その後、織田信長の家臣『柴田勝家』、『明智光秀』、『前田利家』、『森長可』らに仕えたとされ、さらに信長の三男『織田信孝』にも仕ています。
豊臣政権下では、『豊臣秀次』や『佐々成政』に仕えたとされ、最終的に福島正則の下に落ち着き、関ケ原の戦いを迎えます。
ちなみに、福島正則の家臣として、秀吉の小田原征伐にも参陣しています。
晩年の才蔵
才蔵は、晩年になっても豪快なエピソードに事欠きません。
老齢になっても馬を乗り回していたのですが、さすがに歳が歳なので、武器を持ったままとはいかず、長刀などは配下の者に持たせていたそうです。
その配下の者が「才蔵様も歳には敵いませんね」的なことを言うと、憤った才蔵は長刀を奪い、そのまま首をはねてしまったという伝説があります。
しかし、いよいよ自分が長くないと感じた才蔵は槍を持ち、甲冑に身を包み、そのままの武者姿で息を引き取ったと伝わっています。
享年60
最後まで豪快さを失わない武将でした。
本当に強い男『可児才蔵』
しばしば戦国武将で最強が誰か?という話題を耳にします。
よく名前が挙がるのが、上杉謙信とか島津義弘とか。
それ以外でも、人それぞれ色々な想いや見解が示されています。
ただ、こういったときによく出てくる武将って、あくまでも軍事指揮能力の高さや、総合力での強さであることが多いです。
関ヶ原での戦果などを鑑みた場合、純粋なタイマンでの戦闘能力という部分で見ると、可児才蔵は最強候補の一角なのではないかと、個人的には思っています。
まとめ
以上、可児才蔵についてでした。
ともかくも、戦闘力に優れた豪快な武将、それが可児才蔵という男なのです。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。