明智光秀が関ヶ原の戦いに参戦?誰も知らない衝撃の生存説とは

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戦国武将 明智光秀が、関ケ原の戦いに参戦していた?という噂をご存じでしょうか?

 

本能寺の変の主犯でもある光秀は、山崎の戦いに敗れ、敗走中に小栗栖で落ち武者狩りに襲われ亡くなったと言われています。

しかしながら、その後も生き延びていたという、いわゆる生存説もささやかれているのも、また事実。

 

その代表格が、『明智光秀=天海説』です。

ただ、天海説はすでに語りつくされた感があり、多くの方がご存じかと思います。

そこで、この記事では天海説ではなく、これまでほとんど語られてこなかった、明智光秀生存伝説をお伝えします。

 

明智光秀が、関ケ原の戦いに東軍として参戦していたかもしれないという噂を、ご存じでしたか?

 

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明智光秀、関ケ原の戦いに参陣!

明智光秀の肖像画

明智光秀は、本能寺の変で織田信長を自害させた後、羽柴秀吉と激突した『山崎の戦い』で敗北。

敗走中に小栗栖の藪の中で、落ち武者狩りに襲われ亡くなったと言われています。

これが天正10年(1582年)の出来事です。

 

しかし、今回ご紹介するのは、『関ケ原の戦いに光秀が参戦していた』という説です。

つまり、慶長5年(1600年)の出来事です。

 

本能寺の変~山崎の戦いから、およそ18年の月日が流れています。

この説が事実だとするならば、光秀の年齢は70歳~80歳を超えたあたりとなるので、かなり高齢での出陣だったことになります。(光秀の生年は諸説あり)

 

では、次にこの説がどのように語り継がれているのかを確認してみましょう。

 

噂の出どころ

この説は、江戸時代の神沢杜口(かんざわ とこう)という人物が書いた『翁草(おきなぐさ)』という著書が出どころです。

 

翁草には以下のような記述があります。要約してお伝えします。

光秀は山崎の戦いの後、密かに逃れて美濃の寺に隠れ、荒須又五郎(あらす またごろう)と改名し、関ケ原の戦いでは徳川家康(東軍)に加勢しようと軍勢を率いて出陣したが、その途上、川で溺れて亡くなった。

 

多少、補足しますと、『山崎の戦いの後、荒木山城守行信という人物が光秀の影武者となり、光秀自身はうまく逃げのび、故郷の美濃まで帰りついた』というのです。

この影武者となった『荒木』から『荒』をとり、『荒須又五郎』と名乗ったそうです。

 

その後、関ケ原の戦いが起こった際に、徳川家康率いる東軍に参陣するため出兵するも、その途上、川で溺れて亡くなるという情けない最期を遂げた、ということです。

 

この説が事実であるかどうかはかなり怪しいのですが、荒木行信なる人物は実在しており、本能寺の変でも光秀軍の一人として活躍しています。

 

また、光秀が小栗栖で亡くなった後、その首は溝尾茂朝が土中に隠したと伝わっています。しかし、後に発見されるも、かなり腐乱した状態で、その首が本当に光秀のものであるかが、判別できなかったそうです。

この説に従うならば、光秀のものと明確に判断できる遺骸は発見されてはいないのです。

 

このような状況が、光秀生存説を飛躍させている可能性は大いにあるのではないでしょうか。

 

明智光秀と徳川家康

『光秀=天海説』も含め、これらの光秀生存説は、次代を担った徳川家康と春日局の存在が大きく関係していると考えられます。

 

春日局は三代将軍 家光の乳母としてしられる有名な女性。

そして、春日局の父親は『斎藤利三』という戦国武将です。

 

この斎藤利三は、明智光秀の重臣中の重臣。光秀の右腕とも言える存在です。

そんな利三の娘が、徳川家の中枢で将軍後継者である家光の乳母を務めているわけです。

 

光秀は、本能寺の変で信長を自害に追い込んでいるので、普通に考えれば逆賊です。

当然、光秀周辺の人物も逆賊の仲間です。

 

この逆賊である光秀を滅ぼしたのが羽柴秀吉、後の豊臣秀吉です。

つまり、『織田信長&豊臣秀吉』VS『逆賊 明智光秀』という図式になります。

 

この図式に、徳川家康を当てはめてみるとどうなるのか?

 

家康は、信長と同盟関係でしたから、一見すると『織田信長&豊臣秀吉&徳川家康』VS『逆賊 明智光秀』となりそうですが、本能寺の変より後の歴史を見てみると、この図式が変わります。

 

慶長20年(1615年)大阪夏の陣。

この戦いで秀吉の遺児である秀頼、そして秀吉の側室である淀は、崩れ行く大坂城で自害して果てます。

 

この時、豊臣家を滅ぼしたのが徳川家康ですね。

この後に、徳川幕府の体制は盤石になっていくので、家康にしてみれば豊臣家が正義であってはならないのです。

 

つまり、結果的には『織田信長&豊臣秀吉』VS『徳川家康&明智光秀』という図式になっているのです。

家康と光秀が、直接的な同盟関係で豊臣に対抗したわけではありませんが、『敵の敵は味方』の発想でいくと、最終的には家康と光秀の利害関係は一致しています。

 

このような背景があるので、明智光秀は家康にとって『親徳川』の立場になります。

 

光秀って時代をひっくり返すような謀反をやった割には、後世のイメージがそこまで悪くない気がします。

これは想像ですが、結果的に光秀が『親徳川』、『反豊臣、反織田』の立場になったことで、江戸時代を通して逆賊のイメージがそこまで強調されてこなかったことが影響しているのではないかと思っています。

 

その延長線上に、明智光秀=天海説があるのではないかと考えています。

 

『親徳川』の立場になった光秀が、時代を経るごとに話が飛躍していき、光秀=天海という説が出てきたのでは?

なんてことを想像しています。

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明智光秀生存説まとめ

以上、明智光秀の生存説についてでした。

 

光秀は山崎の戦い後も生き延び、関ケ原の戦いに参戦しようとしていたという説があるものの、その真偽は定かではなく、当時の状況証拠から後世の人たちが話を飛躍させた可能性が高い。

さらに、徳川家康や春日局らの存在により、江戸時代に光秀が『親徳川』とされたことで、祖生存説がより強調された。

ということなのではないかと考えています。

 

【参考にした書籍】