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拓麻呂です。
戦国時代を代表する人物『織田信長』。
ほとんどの場合、信長は桶狭間の戦いから台頭してきたかのように語られがちですが、この時信長は27歳。
桶狭間の戦い以前にも、初々しい信長の活躍がありました。
その中のひとつが『稲生の戦い(いのうのたたかい)』です。
信長の実弟『織田信勝(信行とも)』、そして信長と信勝の実母『土田御前(どたごぜん)』。
この三人を中心とする、ドロドロした織田家の権力争いとはどのようなものだったのか?
家系図を交え解説していきたと思います。
織田信長と織田信勝
織田家の家系図
まずは、こちらの家系図をご覧ください。
この系図の通り、織田信秀と土田御前の間に生まれた兄弟が、織田信長と織田信勝(信行)です。
信勝は、兄の信長に二度謀反を起こしており(二度目は未遂)、これが兄弟間の悲劇を招くことになります。
次に信勝の謀反の経緯を見て行きましょう。
稲生の戦い
若い頃の信長は『うつけ』と呼ばれていたことで知られています。
日頃の素行が悪く、だらしのない服装で街を練り歩く信長を、周囲の者たちは煙たく思っていました。
信長のうつけっぷりを示すエピソードとして、父 信秀の葬儀での一幕は有名です。
また、信長の素行があまりにも悪いので、傅役(もりやく、教育係のこと)であった平手政秀が責任を感じて自害したと言う出来事もありました。(平手政秀の自害の理由には諸説あり)
ともかくも、大うつけだった信長を、母親の土田御前も快く思っていませんでした。
一方、弟の信雄はとても素行が良く、真面目な優等生。
前述の父 信秀の葬儀でも、非常に物腰の良い佇まいであったと言われています。
そんな兄弟の違いを見て、土田御前や柴田勝家ら織田家の重臣たちは、織田家の跡取りが信勝が望ましいと考えるようになります。
そして、織田家の行方を案じた柴田勝家や林秀貞といった重臣たちに担がれ、信勝は信長に反旗を翻しました。
ここに信長vs信勝という兄弟喧嘩が勃発。
これが『稲生の戦い』です。
重臣たちが味方に付いた信勝の兵力が1,700だったのに対し、信長はたったの700。
信勝が圧倒的に有利な状況です。
しかし、戦いの最中に信長が凄まじい音量の怒声を放ったことで、信勝軍は腰を抜かして逃げ出す始末だったそうです。
勢いに乗じた信長軍の勝利に終わりました。
戦いに敗れた柴田勝家ら重臣は信長に謝罪し、以後忠誠を誓うことを約束し許されました。
また、信勝も許されましたが、この背景には母 土田御前の嘆願があったためとされています。
土田御前は信長嫌いで、信勝を溺愛していたと言われています。
二度目の謀反
稲生の戦いから約2年後。
信長に対する不平不満がおさまらなかったのか、再び謀反を起こそうと画策していました。
しかし、稲生の戦い以降、信長の忠実な家臣となっていた柴田勝家が、信勝の企てを信長に密告。
謀反の企てを事前に知ることが出来た信長は、信勝を居城の清州城に呼び出し謀殺しました。
こうして、二度目の謀反は未遂に終わったのです。
うつけの信長
最終的には、信勝が処刑されて終わった織田家の兄弟ゲンカ。
元はと言えば、信長のうつけっぷりが引き起こした騒動でした。
うつけだった信長は、現代の言うところのヤンキーのようなものです。
家の跡取りを考えた場合、ヤンキーの長男よりも、真面目な弟を推したくなる気持ちは分からなくもありません。
土田御前にしても、世間の評判が悪い信長よりも、どこに出しても恥ずかしくない品行方正な信勝を溺愛したのは、ある意味仕方のないことだったのかもしれません。
しかしながら、うつけであった信長が、後に戦国時代を代表する超大物に成長していったのは周知の通りです。
若い頃にちょっとくらいやんちゃだった方が、大人になってから活躍できる人材になるっていうのは、今でもあるような気がしますね。
まとめ
以上、織田信長と信勝の兄弟喧嘩についてでした。
意外と知られていない、桶狭間の戦い以前の織田信長。
信長って若い頃から凄い人物で、戦国時代を駆け抜けていったイメージがありますが、決してそんなことはなく、弟との関係に悩まされたりしながら、少しずつ成長していったのです。
そう考えると、織田信長も一人の人間として、身近な存在に思えてきたりしますね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうござました。