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拓麻呂です。
『土田御前』という女性をご存じでしょうか?
生きた時代は戦国時代の真っただ中。
素性があまり分かっておらず、謎の多い女性です。
戦国時代を代表する武将の母親『土田御前』とは、一体何者なのでしょうか?
また、妄想も含めて、その容姿も想像してみます。
土田御前とは?
名前の読み方
まずは『土田御前』という名前の読み方です。
実は『どたごぜん』と『つちだごぜん』という2つの呼び名があります。
ただし、一般的には『どたごぜん』とされることが多いです。
これは『土田政久(どた まさひさ)』という武将の娘だという説に由来しています。
土田御前の出自には諸説があり、近江の六角氏の娘だと言う説など、ハッキリしていないのです。
ですが、一般的な浸透度からも、ひとまずは『どたごぜん』としておけば間違いありません。
織田信長との関係
土田御前は『織田信秀』という武将の継室です。
信秀が最初の奥さんと離縁したため、信秀にとっては2人目の正妻ということになります。
そして、織田信秀と土田御前の間に生まれたのが『織田信長』です。
また戦国No.1美女とも言われる『お市の方』の母親でもあります。
なんですが、土田御前は信長が嫌いだったようです。
信長は長男なので、順当にいけばそのまま織田家の当主になります。
しかし、土田御前は、うつけと呼ばれたいた信長を嫌い、次男坊の『織田信行(おだ のぶゆき)』を溺愛していたと言われています。
そして信行は、兄の信長に対して謀反を起こしますが失敗。
土田御前は、信長に許しを乞い、信行の存命に尽力しています。
ちなみにですが、信行は2回目の謀反を起こし、さすがに許されず処刑されました。
美人だったのか?
そんな土田御前ですが、はたして美人だったのでしょうか?
その容姿を探るために参考にしたいのが、息子の信長と娘のお市。
お市は戦国No.1美女とも言われる女性で、織田信長の妹です。
信長の肖像画の中にはとても写実的なものが残されており、それを見る限り信長は鼻筋の通った顔立ちをしています。
一説によると、信長の家系は美男美女が多く、身長も高かったそうです。
当時の男性の平均身長が160くらいなのですが、信長の身長は160センチ後半だったとも言われているので、比較的大きい方です。
お市のハッキリした身長は分かっていませんが、結構大きかったという記録もあります。
これが土田御前から受け継いだものだとするならば、彼女もなかなかの高身長で、鼻筋の通った顔をしていたのかもしれません。
以前、お市の顔を3D復元してみたことがあるのですが、もしかしたらお市に近い顔をした美女だったのかもしれませんね。
↓お市の顔を3D復元↓

土田御前の最期とは?
そんな土田御前ですが、どんな最期を迎えたのでしょうか?
信行が処刑されたあとは、孫の信忠や信雄、信孝、茶々、お初、お江らの世話をしながら暮らしていたようです。
しかし、本能寺の変で息子の信長と、孫の信忠が自害。
以降は、『織田信雄(のぶかつ)』や『織田信包(のぶかね)』ら近親の庇護のもと、静かな余生を過ごしていたようです。
そして、文禄3年(1594年)に亡くなりました。
生年が不明の為、享年も分かっていませんが、夫の信秀と同世代と考えるならば、70~80歳近い高齢であったと思われます。
土田御前と本能寺の変
前述の通り、土田御前は本能寺の変で、息子と孫を同時に失っています。
そう考えると信長と信忠を亡き者にした『明智光秀』は、彼女からしたらかなり因縁深い人物と言えるのかもしれません。
かつては、うつけと呼ばれていた信長を遠ざけ、次男の信行を溺愛していたと言われる土田御前ですが、信行亡き後は普通に織田家の女性として暮らしています。
おそらく、その心境は複雑なものだったのではないでしょうか。
戦国一の知名度を誇る織田信長と、戦国No.美女と言われるお市の母親『土田御前』。
溺愛した信行を失い、本能寺の変で信長と信忠を失い、その後お市にも先立たれています。
多くの息子、娘、孫が自分より先に亡くなってしまった母親としての観点で見ると、土田御前はかなりの悲しみを背負った女性だったと言えるのかもしれませんね。
まとめ
以上、織田信長の母『土田御前』についてでした。
有名な息子や娘を持つ女性ですが、その素性はほとんど分かっていません。
しかし、多くの謎に包まれた女性であるからこそ、妄想の介入する余地があり、それぞれの人物像を描きやすい人物なのかなと思います。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。