戦国武将ランキング!中国地方の名将10人!最強は誰だ!?

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戦国武将ランキング

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

多くの戦国武将が活躍し、日本の歴史の中でも人気の高い戦国時代。

全国各地で名将と呼べる人物が登場した、特異な時代でもあります。

 

そんな戦国時代の『中国地方』で活躍した名将10人を選んでみました。

 

なお、戦国時代の範囲には諸説あるため、今回は明応2年(1493年)~慶長20年(1615年)の間に生存していた人物に限らせていただきます。(この範囲に1年でも被っていればOK)

順番は50音順とします。

 

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戦国武将ランキング!中国地方編

尼子国久(あまご くにひさ)

明応元年(1492年)~天文23年(1554年)

 

尼子経久の次男。

武勇に優れた尼子の主力部隊『新宮党』を率いた猛将。

『新宮党(しんぐうとう)』とは、新宮谷に屋敷があったことに由来しています。

数々の戦に従軍し、新宮党の名に恥じぬ戦果で、尼子家の発展に大きく貢献しました。

 

しかし、その武勇を鼻にかけ、横柄な態度が目立っていた為、新宮党は周囲から煙たがられる存在になっていきます。

そして、新宮党の態度に業を煮やした当主の晴久に呼び出され騙し討ちにされ、新宮党は全滅しました。

この事件は、毛利元就の陰謀という説もあり、主力を失った尼子氏は徐々に衰退していくことになりました。

 

中国地方を代表する尼子家の最強軍団『新宮党』を率いていた武力と武勇を賞して、10人の一角に選出しました。

 

尼子経久(あまご つねひさ)

長禄2年(1458年)~天文10年(1541年)

 

尼子家を山陰の大大名に押し上げた戦国時代初期を代表する名将。

出雲を拠点に勢力を拡大、11カ国を領有する大大名となり、尼子家を大内家並ぶ中国地方を二分する巨大勢力にまで成長させました。

経久亡き後、徐々に尼子の衰退がはじまることを考えると、まさに一代の英雄でした。

 

また、人に褒められると直ぐに贈り物を与える癖があったらしく、家臣が庭の松の木の枝を賞賛したところ、その松を引っこ抜いて家臣に与えようとしたため、周りの者に制止されたというエピソードが残っています。

気前のいい豪快な性格の持ち主だったと思われます。

 

戦国初期の東国を代表する武将が北条早雲ならば、西国の代表は尼子経久と言っても過言ではありません。

中国地方のみならず、戦国時代を通じてもトップクラスの広大な領土を手に入れたその実力。

文句なしに10人の一角とさせて頂きます。

 

宇喜多直家(うきた なおいえ)

享禄2年(1529年)~天正10年(1582年)

 

『備前の梟雄』の異名をとる戦国大名。

とにかく陰謀のイメージの強い人物。

『斎藤道三』『松永久秀』と並ぶ戦国の三大悪人と言われたり、『毛利元就』『尼子経久』そして『宇喜多直家』を総称して『中国地方の三大謀将』と言われています。

 

基本的には悪人のイメージが強い武将ですが、その悪行をよくよく見れば、祖父の仇討ちであったり、宇喜多家を守る為であったりです。

確かに非情な側面も持ち合わせている武将ですが、逆に見れば戦国時代を生き抜くための強い意志と決断力を持った武将であったと言えます。

 

毛利と織田という巨大勢力に挟まれながらも、恐ろしき謀略と処世術で宇喜多家を生き残らせたその実力は、10人の一角に相応しいと言えるでしょう。

 

大内義興(おおうち よしおき)

文明9年(1477年)~享禄元年(1529年)

 

現在の山口県と北九州の一部を領有した名門 大内家の第15代当主。

戦国初期を代表する名将の一人。

京都を追放された室町幕府10代将軍 足利義稙を擁し上洛を果たし、約10年に渡り幕政に大きな影響力を持ち続けた名将です。

 

しかし、義興が京都にいたことで中国地方では『尼子経久』が台頭。

義興は領地に帰国し、尼子氏と一進一退の攻防を繰り広げることとなります。

 

一方、内政面では明との貿易によって盤石な経済基盤を手に入れ、領国を繁栄させました。

その結果、大内氏の本拠である周防(すおう、現在の山口県)は『西の京』と呼ばれるほど雅な文化が花開いたのです。

 

政治や軍事のみならず、文化面でも大きな足跡を残し、幕府権力にも大きな影響を与え、尼子経久を相手に一歩も引かぬ攻防を繰り広げたその実力。

毛利元就、尼子経久と並び、中国地方の三強とも言える大内義興を10人の一角に入れないわけにはいかないでしょう。

 

吉川元春(きっかわ もとはる)

享禄3年(1530年)~天正14年(1586年)

 

毛利元就の次男。

生涯負けなしの毛利家随一の猛将で、弟の小早川隆景と並び毛利両川(もうりりょうせん)の片翼を担った人物。

幼いころに、山陰の国衆『吉川家』に養子に出されているため、吉川を名乗っています。

 

いわゆる『三本の矢』の逸話に登場する元就の息子の一人であり、毛利を中国地方の大大名に押し上げた猛将です。

弟の隆景とともに、元就亡きあとも毛利家を支え続けました。

 

一方で、尼子氏の本拠地 月山富田城(がっさんとだじょう)包囲中には太平記を書写。

これが『吉川太平記』として、現在でも太平記研究の重要な史料となっています。

 

毛利家随一の猛将でありながら、文学面での素養も持ち合わせた文武両道の吉川元春。

10人の一角に相応しい人物と言えるでしょう。

 

小早川隆景(こばやかわ たかかげ)

天文2年(1533年)~慶長2年(1597年)

 

毛利元就の三男。

兄に『吉川元春』とともに、毛利両川(もうりりょうせん)の片翼を担った人物で、毛利三兄弟の中で、元就の才能を最も受け継いだ人物と言われています。

なお、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋は、隆景の養子に当たります。

 

幼いころに、山陽の国衆『小早川家』の養子となり、水軍を擁する小早川家を乗っ取り、毛利家の水軍を束ねる存在となり、厳島の戦いでは水軍を率い参戦し、敵将『陶晴賢』の退路を断つ活躍を見せました。

 

朝鮮出兵では、碧蹄館の戦いの総大将を務め、日本軍の退路を確保するなど、獅子奮迅の働きを見せ、豊臣政権下では秀吉からの信頼を得て、大老に列せられました。

 

世渡り上手な知将であり、毛利家を大大名に押し上げ、そして豊臣秀吉にも高く評価されたその実力は、10人の一角に相応しいと言えるでしょう。

 

陶晴賢(すえ はるかた)

大永元年(1521年)~天文24年(1555年)

 

大内義隆の家臣として、宿敵である尼子家と、中国地方を二分し一進一退の攻防を繰り広げた猛将。

その勇猛ぶりは『西国無双の侍大将』と称えられました。

 

主君の義隆が尼子の本拠 月山富田城攻めに失敗したことを契機に覇気を無くし、文化や芸術に傾倒し政務を怠りがちになったことで、大内家の行く末を案じた晴賢は謀反を決行。

追い詰められた義隆は大寧寺で自刃して果てました(大寧寺の変)。

 

大内家の実権を握った晴賢は、毛利との決戦となった厳島の戦いで、元就が張り巡らした数々の謀略にハマってしまい、圧倒的な兵力を持ちつつも奇襲をくらい敗れたと言われています。

毛利の攻撃により敗走する船も全て失い、厳島に閉じ込められた晴賢は完全に逃げ道を失い自刃して果てました。

 

最期こそ無残に終わりましたが、名門 大内家の当主を討ち、実権を握るまでに至った実力は、10人の一角に入れても良いのではないかと思います。

 

村上武吉(むらかみ たけよし)

天文2年(1533年)?~慶長9年(1604年)

 

瀬戸内海の能島(のしま)を拠点としたことから『能島武吉』とも呼ばれています。

一般的に戦国期の村上水軍の頭領と言えば、この人の印象が強いです。

宣教師ルイス・フロイスからは『日本最大の海賊』と評しされた瀬戸内海の覇者。

 

織田信長の水軍と激突した『第一次木津川口の海戦』では、織田水軍を木っ端みじんに粉砕。(武吉の参戦を裏付ける史料はありませんが、立場的に参戦していた可能性は大きい)

瀬戸内海の激しい潮流で鍛え上げられた村上水軍の操船技術の前に、織田水軍は手も足も出なかったと言われています。

 

また、明治時代の日露戦争における『日本海海戦』では、武吉の著した『村上舟戦要法』が参考にされ、ロシアのバルチック艦隊を撃破するという大勝利をあげています。

 

戦国時代でも屈指の水軍『村上水軍』を率い、海運の要衝である瀬戸内海を制していた牟田上武吉は、10人の一角に相応しい人物と言えるでしょう。

 

毛利元就(もうり もとなり)

明応6年(1497年)~元亀2年(1571年)

 

戦国時代屈指の謀将で、中国地方の覇者。

安芸(あき、現在の広島県)の一部を領有する豪族だった毛利家を、中国地方全域と四国・北九州の一部を支配する大大名に押し上げた名将中の名将。

 

次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家の養子とし、それぞれの家督を相続させ両家を乗っ取り勢力を拡大。

さらに『尼子晴久』の大群に居城 吉田郡山を包囲された際には、これを撃退(吉田郡山城の戦い)。

 

55歳と時には厳島の戦いで『陶晴賢』と激突。

兵数的には圧倒的に不利であったが、数々の謀略で晴賢を翻弄、奇襲をかけ3~4倍の敵を蹴散らし勝利しました。

 

厳島合戦の勝利で全国区となった元就は、山陰の尼子をも倒し中国地方全域を制する巨大勢力となったのです。

 

中国地方だけでなく、戦国時代を代表する武将の一人であり、大内と尼子の二大勢力に挟まれながらも、したたかに毛利を生き残らせた巧みな処世術。

なにより、弱小だった毛利家を一代で戦国時代屈指の大大名に押し上げたその実力。

10人の一角に入れるのは必須の人物と言えるでしょう。

 

山中鹿介(やまなか しかのすけ)

天文14年(1545年)?~天正6年(1578年)

 

山陰の雄 尼子氏の忠臣。

毛利元就に滅ぼされた尼子家の再興に生涯をかけた人物。

鹿介は通称で、実名は『幸盛』。

 

何度負けても、ゾンビのように蘇り、打倒毛利に生涯を捧げました。

毛利打倒の志を成就するため、『我に七難八苦を与えたまえ』と月に祈ったエピソードでも知られています。

 

結果的に毛利打倒は叶いませんでしたが、その不屈の闘志に敬意を表し、10人の一角に入れさせていただきます。

 

No.1は誰だ?

以上、戦国時代の中国地方を代表する名将を10人選んでみました。

 

では、この中でNo.1はだれなのか?と問われれば、個人的には『毛利元就』かなと思います。

 

元就が築いた中国地方全域に迫る領土は、一代で広げた版図としては最大です。

さらに、戦国時代のみならず、幕末においても歴史に大きな影響を与える人物が、毛利領からたくさん出ました。

いわゆる長州藩ですね。

 

その礎を築いたのが元就なのです。

 

ただ、大内義興や尼子経久が元就と同世代であったならば、歴史は違った結果になっていたかもしれません。

それくらい、元就、経久、義興の実力は拮抗していると感じます。

 

ということで、中国地方のNo.1武将は毛利元就とさせていただきます。

 

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まとめ

以上、中国地方の名将10人でした。

 

ちなみに、順番をつけるとしたら・・・

  1. 毛利元就
  2. 尼子経久
  3. 大内義興
  4. 宇喜多直家
  5. 小早川隆景
  6. 吉川元春
  7. 村上武吉
  8. 陶晴賢
  9. 山中鹿介
  10. 尼子国久

という感じです。

 

ついでに、候補にあがったけど、惜しくも外れた武将は・・・

  • 宇喜多能家
  • 陶興房
  • 毛利隆元

の3名でした。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。