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拓麻呂です。
日本全国が戦乱の世となった戦国時代。
中央政府が機能しなくなった為、この時代には全国各地で魅力的な人物が誕生し、多くの人物が戦場に散っていきました。
今回は、そんな戦国時代を駆け抜けた武将たちの中でも、特に主君への忠誠心が高かった武将をランキングにしてみたいと思います。
※今回ご紹介するランキングは個人的な見解になります。ご了承ください。
戦国時代ランキング!忠誠心が高い戦国武将ベスト3
3位 片倉景綱
3位はこの武将です。
独眼竜『伊達政宗』に仕えた『片倉景綱』です。
一般的には『片倉小十郎』の名で知られています。
彼は政宗が幼少の頃より仕え、生涯に渡り伊達家の為に尽くした武将です。
政宗が幼い時、片目の視力を失い目玉が飛び出し、とても醜い容貌になっていました。
自分の醜い姿を悲観した政宗は、暗い性格に育ちます。
そんな政宗を見かねた景綱は、飛び出した目玉をえぐり取るという大胆な行動に出ました。
『伊達家の当主が、そんな悲観的な性格でどうするのか!!』
そんな想いからの行動でした。
たまげた政宗は、痛みのあまり気絶してしまいましたが、以後、景綱のことを非常に信頼したと言われています。
そして天正18年(1590年)豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ『小田原征伐』。
北条氏が籠る小田原城を、秀吉軍は数万の兵で取り囲んでいましたが、秀吉はこの時、政宗にも参陣するよう命じていました。
北条氏と縁のあった政宗は参陣を躊躇しますが、最終的に参陣を決意したのは、景綱の意見が強く影響していたと言われています。
この時、遅れて参陣してきた政宗が白装束で現れるというパフォーマンスを披露したため、秀吉は政宗の器量を認め遅参を許したという有名なエピソードがあります。
時代は移り、1615年 大阪夏の陣。
政宗も参戦したこの戦いの際、景綱は病を得ていましたが、代わりに息子が参戦し大いに活躍。
豊臣家は滅亡し、名実ともに家康の天下となり戦国の世が終焉を迎えてから程なくして、景綱は世を去ります。
伊達家の為、そして政宗の為に尽くしきった生涯でした。
2位 石田三成
2位はこの人。
関ヶ原の戦いで西軍を主導した『石田三成』です。
三成と言えば、豊臣秀吉に対する忠誠心です。
三成は、豊臣配下の多くの武将に嫌われていたイメージがあるかと思います。
一方で、そのイメージは豊臣家の為を思っての行動だったという見方も出来ます。
堅物で真面目な三成のイメージも、それだけ豊臣家のために必死だったということの表れなのかもしれません。
関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、その後斬首された三成は、歴史の敗者です。
関ヶ原で三成が敗れ、間もなく江戸時代がやってきます。
言い換えるならば、三成が敗れたことで、勝者の徳川の時代が約260年続くことになるのです。
歴史とは、勝者の正当性をアピールするため、敗者は悪者として後世に伝わることが多々あります。
それが歴史の常です。
三成はその最たる例で、神君家康公に刃を向けた愚か者として、そして必要以上の悪者として、後世に伝わっている可能性は大いにあります。
ところが、現在三成の居城であった佐和山城の近隣にお住まいの方たちからは、今なお慕われているのです。
これは三成が民衆を想い、善政を敷いていたからに他なりません。
領民に慕われ、豊臣家の忠義を貫いた男。
それが石田三成という男なのです。
1位 山中鹿介
1位は山陰の雄 尼子家の中心『山中鹿介(やまなか しかのすけ)』です。
尼子家の宿敵と言えば、毛利家。
つまり、鹿介の宿敵も毛利家です。
中国地方の覇者 毛利元就によって滅亡した尼子家を再興させるため、その生涯を捧げた武将。
それが山中鹿介です。
鹿介は、何度負けても不屈の闘志で毛利家と戦い続けました。
そんな鹿介が残した有名な言葉があります。
願わくば、我に七難八苦を与えたまえ
この言葉には、どんな困難が振りかかろうとも、必ずや尼子家を再興しようという確固たる意志が感じられます。
最終的には、織田信長の軍門に降り、毛利家と対峙。
上月城の守備を任されるも、城を毛利軍に包囲されたうえ、信長に見捨てられ落城。
鹿介は捕縛され、護送中に謀殺されました。
何度も毛利家に牙を剥く危険人物とされていたのかもしれません。
尼子家再興の夢は儚く散りましたが、まさに尼子家に忠誠を尽くし切った生涯でした。
まとめ
以上、忠誠心の高い戦国武将ベスト3でした。
1位 山中鹿介
2位 石田三成
3位 片倉景綱
きっと戦国ファンそれぞれの想いもあることと思います。
『忠誠心の高い戦国武将』
あなたは、誰を選びますか?
戦国武将をいろいろな角度でランキングにしてみました。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。