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拓麻呂です。
日本全国が戦乱の世となった戦国時代。
中央政府が機能しなくなった為、この時代には全国各地で魅力的な人物が誕生し、多くの人物が戦場に散っていきました。
今回は、そんな戦国時代を巧みな処世術で生き抜いた武将をランキング形式でご紹介したいと思います。
※今回ご紹介するランキングは個人的な見解になります。ご了承ください。
世渡り上手な戦国武将ベスト3
第3位 小早川隆景
3位はこの人、毛利元就の三男『小早川隆景』です。
小早川隆景の世渡り上手っぷりが発揮されたのは、本能寺の変の後の対応です。
本能寺の変で信長が倒れた時、隆景が率いる毛利軍は羽柴秀吉と対峙していました。
信長自害の報に接した秀吉は、急遽毛利と和睦し、京へ引き返していきます。
有名な『中国大返し』です。
この時、毛利軍は秀吉を追撃しようとしましたが、隆景がそれを制します。
『秀吉は天下を取る男である。ここで撤退を見逃し毛利の器の大きさを見せれば、秀吉は毛利に大いに感謝するだろう。そうすれば毛利の家は安泰であろう』
この後、隆景の予言通り天下を手中にし、毛利家は秀吉政権下で重用されていくことになります。
さらに後年、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将として有名な『小早川秀秋』の養子に引き取った隆景。
この時、秀秋は最初、毛利家当主 輝元の養子にする予定でした。
しかし、隆景がそれを制します。
秀秋は秀吉の甥であり豊臣一族の人間です。
そんな秀秋による輝元への養子入りが意味するもの、それは秀吉により毛利家の乗っ取りです。
ここで隆景が一計を案じます。
『このまま秀秋が毛利本家に養子入りすれば、毛利は豊臣に乗っ取られる。それは何としても避けねばならない。しかし、むげに断れば毛利の立場は危うくなる』
そう考えた隆景は、秀秋を自らの養子に迎えることになります。
隆景を高く評価していた秀吉は、この決定に大いに喜んだと言われています。
見方によっては、媚を売るのが上手とも言えるのですが、結果的には、秀吉政権下における自分の立場、そして毛利家の立場も守った世渡り上手と言えるでしょう。
第2位 藤堂高虎
2位は築城の名手とも言われる『藤堂高虎』です。
この高虎ですが、7回も主君を鞍替えしています。
これを世渡り上手と言わずして、何と言いましょう。
以下、高虎の主君遍歴です。
①浅井長政(あざい ながまさ)
↓
②阿閉貞征(あつじ さだゆき)
↓
③磯野員昌(いその かずまさ)
↓
④織田信澄(おだ のぶずみ)
↓
⑤羽柴秀長(はしば ひでなが)
↓
⑥豊臣秀保(とよとみ ひでやす)
↓
⑦徳川家康(とくがわ いえやす)
このように7名の主君に仕えています。
ちなみにですが、7度も主君を変えたという藤堂高虎は、一見すると節操のない行動をとっているように見えますが、『武士は二君に仕えず』という価値観が誕生するのは江戸時代になってからです。
戦国時代とは、自らの『家』や『領地』を守れる強い主君に仕えるのが正義であり、当たり前だった時代です。
現代でも、先行き不安定な会社は見限って、転職することって普通にある話だと思います。
それと同じような感覚です。
しかしながら、いくら戦国時代とは言え、7度も主君を変えた武将は異例であると同時に、高虎はそれだけ処世術に優れた武将だったのは間違いないでしょう。
第1位 豊臣秀吉
1位は、やっぱりこの人ではないでしょうか?
『羽柴秀吉』、後の『豊臣秀吉』です。
農民から天下人に成り上がるというとんでもない偉業は、もちろん秀吉の実力もあったと思いますが、やはり世渡り上手でなければ実現出来ないのではないでしょうか?
現代でも、出世するには上司に気に入られたりする必要もあります。
『人たらし』とも言われる秀吉の出世街道には、彼の処世術が大きく影響しているはずです。
『農民から天下人に成り上がった』
この事実だけで、秀吉は『世渡り上手な戦国武将No.1』に相応しいでしょう。
まとめ
以上、世渡り上手な戦国武将ベスト3でした。
1位 豊臣秀吉
2位 藤堂高虎
3位 小早川隆景
きっと戦国ファンそれぞれの想いもあることと思います。
『世渡り上手な戦国武将』
あなたは、誰を選びますか?
戦国武将をいろいろな角度でランキングにしてみました。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。