戦国武将ランキング!甲信越地方の名将10人!最強は誰だ!?

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

多くの戦国武将が活躍し、日本の歴史の中でも人気の高い戦国時代。

全国各地で名将と呼べる人物が登場した、特異な時代でもあります。

そんな戦国時代の『甲信越地方』で活躍した名将10人を選んでみました。

なお、甲信越は現在でいうところの、山梨県(甲斐)、長野県(信濃)、新潟県(越後)の三県の総称です。

なお、戦国時代の範囲には諸説あるため、今回は明応2年(1493年)~慶長20年(1615年)の間に生存していた人物に限らせていただきます。(この範囲に1年でも被っていればOK)

順番は50音順とします。

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戦国武将ランキング!甲信越地方編

上杉景勝(うえすぎ かげかつ)

弘治元年(1556年)~元和9年(1623年)

謙信の亡き後に、上杉家の家督を相続した武将。

とても無口でほとんど笑顔を見せることが無かったと伝わっています。

また、彼の配下には、愛の兜で有名な『直江兼続』がいます。

謙信が亡くなった後、北条家より謙信の養子に入っていた『上杉景虎』と景勝の間で家督争いが勃発。

この騒乱を『御館の乱(おたてのらん)』と言い、景勝は見事勝利しました。

秀吉政権下では『五大老』の一人に列せられ、政治の中枢を担いました。

関ヶ原の戦いの後、米沢に転封となるも、上杉家を江戸時代に残したのは景勝であり、謙信亡き後の壮絶な家督争いを勝ち抜いていることなどから、10人の一角としても良い人物なのかなと思います。

上杉謙信(うえすぎ けんしん)

享禄3年(1530年)~天正6年(1578年)

『越後の龍』の異名で呼ばれる戦国大名。

自らを毘沙門天の化身と称し、領土拡張を狙う『武田信玄』と『北条氏康』といった両雄と壮絶な戦いを繰り広げた軍神。

戦に臨む前は、毘沙門堂に籠ってひたすら戦略練り、いざ戦となればその戦略をいかに思惑通りに実行するかを楽しんでいるような、いわば戦争芸術家のような側面もありました。

有名な第四次川中島の戦いでは、武田信玄のキツツキ戦法を見破り、武田軍を窮地に陥れました。

また、織田信長の北陸方面軍(柴田勝家軍)と戦った手取川の戦いでは、圧倒的に少ない兵力で織田軍を圧倒。

謙信を恐れた信長は『洛中洛外図屏風』という立派な屏風を、謙信にプレゼントしたりもしています。

まさに『毘沙門天の化身』という異名が似合う人物であり、戦場での指揮能力に関しては戦国最強と言っても過言ではありません。

確実に10人の一角に入る名将です。

真田信之(さなだ のぶゆき)

永禄9年(1566年)~万治元年(1658年)

真田昌幸の嫡男で、幸村(信繁)の兄にあたる人物。

妻は本多忠勝の娘『小松姫』。

関ヶ原の戦いでは、父 昌幸と弟 幸村(信繁)が、石田三成の西軍に与したのに対し、信之は徳川家康の東軍に味方しました。

これは真田家を滅ぼさないための昌幸の策であったとされ、『犬伏の別れ』というエピソードでも知られています。

大阪の陣でも、弟の幸村は豊臣方に味方したが、信之は家康に与し自身の代わりに息子たちが出陣しています。

大阪の陣後は、信濃(しなの、現在の長野県)に本拠を移し、松代藩の藩主となり、戦国の世にあって93歳という長寿を全うしました。

一般的には弟の幸村が注目されがちですが、幸村は大阪の陣で家康を『あと一歩まで追い詰めた』だけであり、結果は何も残していません。

真田の本家はあくまで信之であり、真田の家名を後世に残せたのは信之がいたからです。

そういった意味では、幸村は10人の一角に入るに相応しい武将と言えるでしょう。

真田昌幸(さなだ まさゆき)

天文16年(1547年)~慶長16年(1611年)

真田幸隆の三男で、真田幸村の父親。

武田家滅亡後は、真田家の生き残りのため、徳川、北条、上杉、織田、豊臣など、状況に合わせて多くの大名に仕え、豊臣秀吉をして『表裏比興の者』と言わしめた知将。(表裏比興とは老獪で抜け目ないというような意味)

居城の上田城では、徳川の大軍を2度に渡り撃破。

とくに二度目の上田城攻めを受けた時は、少数の兵で徳川秀忠軍を翻弄。

その巧みな戦術にハマった秀忠は、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を犯したと言われています。

武田、上杉、北条、徳川といった巨大勢力の狭間で、小さな真田家を生き残らせたその実力。

まさしく戦国時代きっての戦略の達人であり、10人の一角に絶対に入れなければならない名将です。

武田信玄(たけだ しんげん)

大永元年(1521年)~元亀4年(1573年)

『甲斐の虎』と呼ばれた戦国大名。

本拠地は山梨県で、長野県、静岡県の一部、群馬県の一部にまで領土を広げた戦国時代を代表する人物。

孫子の兵法を熟知した信玄が組織した武田軍は、戦国最強軍団との呼び声も高く、『風林火山』の旗印を使用したことでも有名です。

独裁的になっていた父を追放し家督を相続した後は、武田の版図を拡大し越後の大大名『上杉謙信』と激突。

両雄が戦った第四次川中島の戦いは、戦国時代屈指の大激戦として知られています。

晩年に西上作戦(上洛しようとしていたという説もある)を実施し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに粉砕。

そのまま進軍し、信長をも蹴散らすかと思われたところで、惜しくも急逝しました。

戦国最強に推す人も多い武田軍を組織した名将であり、戦国時代を最も代表する武将『武田信玄』。文句なく10人の一角です。

武田信繁(たけだ のぶしげ)

大永5年(1525年)~永禄4年(1561年)

武田信玄の弟。

武田の副将として、信玄を支えた名将です。

真田幸村の諱(いみな、本名のこと)である『信繁』は、この武田信繁の勇猛さにあやかり名付けたものです。

あくまで、武田家の一武将であるという立場を貫き、兄の信玄(晴信)を決して『兄』とは呼ばなかったと言われています。

第四次川中島の戦いでは、啄木鳥戦法を見破られ危機に陥った信玄本陣を守る為、上杉軍三部隊を相手に奮戦するという獅子奮迅の活躍を見せた後に討死しました。

兄弟間の争いが当たり前のように発生していた戦国時代において、最後まで兄に忠誠を誓い続けたその人生は、まさに『武田家の副将』と呼ぶに相応しい人物です。

戦国最強 武田の副将となれば、10人の一角に入れないわけにはいかないでしょう。

直江兼続(なおえ かねつぐ)

永禄3年(1560年)~元和5年(1620年)

『愛』の兜で有名な人。

ちなみに、兼続は義を重んじるために『愛』の兜をかぶっていたわけではありません。

大河ドラマ『天地人』の兼続は、完全にフィクションです。

↓兼続の『愛』の本当の意味はコチラ↓

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上杉景勝の右腕となり大活躍した人物で、徳川家康にイチャモンを付けられた際の返答『直江状』はあまりにも有名です。

秀吉からも、その実力を認められ、引き抜かれそうになるが、景勝への忠義を忘れず、上杉家臣であることを守り続けました。

上杉家が、米沢30万石に減封された際、そのうち6万石を与えれられた事実からも、兼続が如何に評価されていたかが分かります。

景勝とともに、謙信亡き後の上杉家を支え、江戸時代まで上杉の家名を残した功績は、10人の一角と評価しても良いのではないでしょうか。

長尾為景(ながお ためかげ)

文明18年(1486年)~天文11年(1543年)

上杉謙信の父親。

越後の守護代であった長尾家を、下剋上によって戦国大名化させた梟雄。

越後の守護大名で主君にあたる『上杉能房(うえすぎ よしふさ)』に反旗を翻し挙兵。

能房を自刃させ、その養子であった『定実(さだざね)』を当主に据え、上杉家の実権を握りました。

その2年後には、越後に侵攻してきた関東管領の『上杉顕定』を返り討ちにし、傀儡の当主 定実を幽閉し、実質的に上杉家の乗っ取りを成功させました。

半ば強引に上杉家を乗っ取った為、周囲の反発に合い、最後は嫡子の晴景(謙信の兄)に譲って隠居しました。

結果的に、自身は隠居せざるを得なくなりましたが、為景の台頭が無ければ後の上杉謙信は歴史の表舞台に登場しなかったかもしれません。

戦国初期の下剋上の雄を代表する人物であり、長尾家(後の上杉家)飛躍の出発点となった為景は10人の一角に相応しい人物です。

村上義清(むらかみ よしきよ)

文亀元年(1501年)~元亀4年(1573年)

信濃(長野県)北部を拠点に活躍した豪族。

武田信玄の好敵手としても知られています。

義清は、信濃へ勢力を広げる信玄を迎え撃ち、上田原の戦いで激突。

この戦いで、武田勢の『板垣信方』や『甘利虎泰』といった重臣を討ち取る大勝利を挙げました。

その2年後に再び侵攻してきた信玄を、戸石城で迎え撃ちこれを撃破。

大惨敗を遂げた武田軍は敗走していきました。

この時も『横田高松(よこた たかとし)』らが討死しています。

これを『戸石崩れ』と言い、信玄の不名誉な敗戦として後世に語り継がれています。

後に戦国最強とも言われた武田軍を、2度に渡り粉砕した戦績は、10人の一角として相応しい実力者なのではないでしょうか。

山県昌景(やまがた まさかげ)

享禄2年(1529年)~天正3年(1575年)

武田四天王(武田四名臣)の一人で、武田軍を代表する猛将。

山県隊は甲冑を真紅に染めぬいており、その姿は『赤備え』と言われ、近隣諸国にもその強さを恐れられました。

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を完膚なきまでに叩きのめし、恐怖した家康は糞を漏らしてしまったほどでした。

信玄亡き後の長篠の戦いで、赤備えを率いて突撃するも全身に銃弾を浴びて討死。

一説には、両手を撃ち抜かれ手が使えなくなった昌景は、口に采配を加え指揮を執るという壮絶なものだったと言われています。

武田軍の強さの象徴『赤備え』を率いた猛将であり、信玄からも信頼されたその実力は、10人の一角に相応しいと言えるでしょう。

No.1は誰だ?

以上、戦国時代の甲信越地方を代表する名将を10人選んでみました。

では、この中でNo.1はだれなのか?と問われれば、個人的にはやっぱり『武田信玄』か『上杉謙信』かなと思います。

イメージもあると思うのですが、やっぱり信玄と謙信には、別格の強さを感じてしまいます。

ただ『真田昌幸』も戦国随一の名将だと思っているので、難しいところです。

甲信越は激戦区ですね。

正直なところ、信玄と謙信と昌幸は順番がつけられません。

なので、家臣団も含めた総合力を加味して、甲信越のNo.1武将は武田信玄とさせていただきます。

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まとめ

以上、甲信越地方の名将10人でした。

ちなみに、順番をつけるとしたら・・・

  1. 武田信玄
  2. 上杉謙信
  3. 真田昌幸
  4. 真田信之
  5. 長尾為景
  6. 武田信繁
  7. 上杉景勝
  8. 村上義清
  9. 山県昌景
  10. 直江兼続

という感じです。

ついでに、候補にあがったけど、惜しくも外れた武将は・・・

  • 真田幸隆
  • 馬場信房(馬場信春)
  • 高坂昌信(春日虎綱)
  • 内藤昌秀(内藤昌豊)
  • 武田信虎

の5名でした。

ちょっと武田贔屓になりすぎな気もしますが・・・。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。


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