ご来訪ありがとうございます。
拓麻呂です。
日本全国が戦乱の世となった戦国時代。
中央政府が機能しなくなった為、この時代には全国各地で魅力的な人物が誕生し、多くの人物が戦場に散っていきました。
今回は、そんな戦国時代を駆け抜けた武将たちの中から、歴史を動かすような裏切りをした武将をランキングにしてみたいと思います。
※今回ご紹介するランキングは個人的な見解になります。また、武将の評価には様々な見方があります。また、今回取り上げる武将のファンの方には不快に感じる部分があるかもしれません。ご理解の上お読みいただけると幸いです。
戦国時代ランキング!裏切り者の戦国武将ベスト3
3位 陶晴賢
3位は毛利元就と厳島の戦いで激突した『陶晴賢(すえ はるかた)』です。
晴賢が仕えていたのは大内家。
大内家と言えば室町時代から非常に力のある守護大名で、名門の家柄として中国地方西部(山口県あたり)に君臨していました。
晴賢の頃は『大内義隆』が大内家当主でしたが、義隆は京への憧れが強く、当時の山口県は『西の京』と呼ばれるほどの繁栄を見せていました。
しかし、義隆の京文化への傾倒が、晴賢ら武断派には軟弱と映ります。
そして1551年、晴賢は義隆への謀反を決行、義隆は自刃して果てました。
これを『大寧寺の変(だいねいじのへん)』と言います。
これにより中国地方の勢力図が変わってくることになり、毛利家が台頭してくることになります。
そして、大寧寺の変から約4年後の1555年 毛利元就と陶晴賢の間で行われた『厳島の戦い』で、晴賢は敗れ自刃しました。
室町以来、名門の家柄として全国に名を馳せた大内家が、大寧寺の変を契機に滅びの道を進んでいくことになった事実、そして毛利の台頭を許した事実。
もし大内家が戦国時代後半まで残っていたら、毛利の台頭も無かったでしょうし、同じ歴史にはなっていなかったはずです。
毛利家が後の歴史に大きな影響を与えていくことを考えると、陶晴賢の謀反は戦国時代のみならず、日本の歴史にも大きな影響を与えた事件と言えるのではないかと考えています。
2位 明智光秀
2位は『明智光秀』です。
出典:Wikipediaより
光秀の裏切りと言えば『本能寺の変』です。
1582年、快進撃を続けていた織田信長を本能寺で撃ち滅ぼした有名な事件です。
もし本能寺の変が起こらず、信長が生きながらえていたとすれば、豊臣政権は無かったでしょうし、家康の台頭も無かったでしょう。
信長は黒人の家臣(弥助)を召し抱えたり、海外の珍しい品に興味を示していたので、信長が戦国時代を制覇していたら、江戸時代のような鎖国政策は実施していなかったでしょうから、その後の歴史は大きく変わっていたはずです。
昨今の世界情勢を見ると、20世紀に叫ばれてきたグローバル化が必ずしも正しいとは思えないのですが、信長が生きていれば明治維新を待たずして、もっと早くに日本を世界水準まで押し上げていたかもしれませんね。
1位 小早川秀秋
1位は小早川秀秋です。
出典:Wikipediaより
秀秋と言えば、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った人、というイメージが定着しています。
明智光秀と悩んだのですが、1位にした理由もそれです。
秀秋の裏切りは、西軍敗北の直接的な原因を作ってしたので、彼は江戸時代の到来を決定づけた人物でもあるかもしれません。
僕は、秀秋の裏切りや、関ヶ原での毛利家の行動を思うと、いつも小早川隆景が生きていたらどうなっていただろう?と考えてしまいます。
小早川隆景は、毛利元就の三男で、秀秋の養父でもあります。
元就亡き後、毛利家は孫の輝元が継ぎますが、実質的に毛利家を主導していたのは隆景と兄の吉川元春です。
そして兄の元春亡き後も毛利家を主導した隆景は、関ヶ原が起こる3年前の1597年に亡くなっています。
隆景が生きていても関ヶ原の戦いは起こっていたかもしれません。
ですが、毛利の重鎮かつ豊臣五大老クラスの隆景があと3年長生きしていたら、少なくとも秀秋の行動は違ったものになっていたのかなと感じています。
まとめ
以上、大きな裏切りを行った戦国武将ベスト3でした。
1位 小早川秀秋
2位 明智光秀
3位 陶晴賢
きっと戦国ファンそれぞれの想いもあることと思います。
『大きな裏切りをした戦国武将』
あなたは、誰を選びますか?
戦国武将をいろいろな角度でランキングにしてみました。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。