戦国武将ランキング!九州地方の名将10人!最強は誰だ!?

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戦国武将ランキング

多くの戦国武将が活躍し、日本の歴史の中でも人気の高い戦国時代。

全国各地で名将と呼べる人物が登場した、特異な時代でもあります。

 

そんな戦国時代の『九州』で活躍した名将10人を選んでみました。

 

なお、戦国時代の範囲には諸説あるため、今回は明応2年(1493年)~慶長20年(1615年)の間に生存していた人物に限らせていただきます。(この範囲に1年でも被っていればOK)

順番は50音順とします。

 

戦国武将ランキング!九州編

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大友宗麟(おおとも そうりん)

享禄3年(1530年)~天正15年(1587年)

【評価ポイント】

  • 九州北部~中部にかけて6か国を領有していた時期があった
  • 島津氏や龍造寺氏と並び九州を代表する大名
  • 北九州に進出してきた毛利氏とも戦い撃退している

【1分でわかる大友宗麟列伝】

豊後(ぶんご、現在の大分県)の戦国大名。『島津義久』『龍造寺隆信』と一進一退の攻防を繰り広げた、九州における3強の一角。また、北九州に進出してきた『毛利元就』を相手にしても一歩も引かなかった実力の持ち主。

 

宗麟が所持していた大砲『フランキ砲』は、その破壊力の凄まじさから『国崩し(くにくずし)』と呼ばれていたことでも知られています。

 

ところが、龍造寺氏と争った今山の戦いで大敗、次いで島津氏にも耳川の戦いで惨敗。窮地に立たされた宗麟は、豊臣秀吉の救援を依頼。これが、秀吉の九州征伐へと繋がることになります。

 

また、キリスト教に傾倒しすぎ、キリスト教徒の理想郷を作り上げると言う夢を抱いていたと言われ、これが家臣たちの反発を招き、重臣の『立花道雪』に諫められたりしています。

 

素行にもいろいろ問題があったらしく、評価が難しい武将です。

 

島津家久(しまづ いえひさ)

天文16年(1547年)~天正15年(1587年)

【評価ポイント】

  • 耳川の戦いや沖田畷の戦いでの大活躍
  • 戸次川の戦いでの活躍
  • 島津氏の重要な戦いでとにかく獅子奮迅の働きをしている

【1分でわかる島津家久列伝】

島津四兄弟の四男坊。次兄の義弘にも引けを取らない猛将。

 

大友宗麟と激突した耳川の戦い、龍造寺隆信と激突した沖田畷の戦いにも参戦。この2つの合戦は、宿敵大友とや龍造寺と雌雄を決する大戦でしたが、家久の大活躍でともに勝利を収めています。とくに沖田畷の戦いでは、圧倒的な兵力差をひっくり返して勝利しています。(兵数は史料によってかなりバラツキがあります)

 

秀吉の九州征伐では、歳久同様に最後まで徹底抗戦を主張しています。なお、九州征伐軍の先鋒として侵攻してきた豊臣軍の中には、長宗我部元親と息子の信親がいました。これを迎え撃ったのが家久で、長宗我部信親を討ち取っています。(戸次川の戦い)

 

その後、島津は降伏しましたが、その直後に急死しました。

享年41

あまりに突然の訃報だったこと、歳久同様、徹底抗戦を主張していたことこと、降伏直後であったことなどから、秀吉に疎まれていて毒殺されたのではないかとも言われています。

 

島津忠良(しまづ ただよし)

明応元年(1492年)~永禄11年(1568年)

【評価ポイント】

  • 戦国島津家中興の祖
  • 分裂し仲違いしていた島津家をまとめあげた
  • いろは歌を作り薩摩武士の基盤を築いた

1分でわかる島津忠良列伝

島津四兄弟の祖父にあたる人物。『日新斎(じっしんさい)』という法名でも知られています。

 

忠義は、もともと島津の分家『伊作島津家』の生まれだったのですが、母が同じく分家の『相州島津家』に嫁いだ(再婚)ことで伊作、相州の両家の家督をともに継承。

また、もうひとつの分家『薩島津家』が『島津本家』と揉めており、本家からの要請で島津本家当主『島津勝久』の後継者に自身の嫡子『貴久』を送り込み、本家をも継承しました。

 

また、薩摩武士の教育方針である『島津忠良いろは歌』の創設者でもあり、家臣の育成にも力を注ぎました。

敵味方問わず、戦で亡くなった者たちへの供養も怠らなかった人格者としても知られ、後に戦国九州を席巻する島津家の礎を築いた『島津家中興の祖』です。

 

島津義久(しまづ よしひさ)

天文2年(1533年)~慶長16年(1611年)

【評価ポイント】

  • 戦国時代における島津氏の最盛期を築いた
  • 九州征伐や関ヶ原の戦い後も島津家を生き残らせている
  • 弟の歳久処刑など島津家当主としての英断が凄まじい

1分でわかる島津義久列伝

島津家16代当主。義弘、歳久、家久の個性溢れる弟たちを束ね、九州のほぼ全域を支配した名将。

大友宗麟、龍造寺隆信という強敵を撃破し、九州制覇目前に迫りましたが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ降伏し、秀吉の軍門に下りました。

 

関ヶ原の戦いでは、弟の義弘と意見が対立。結果的に義弘は西軍に組し敗北。その後の戦後処理で、巧みな立ち回りを見せ、領地を一切削られることはありませんでした。

 

1611年没、享年79
当時としてはかなり長命だった人物です。

 

弟たちの個性が強く、印象が薄くなりがちですが、大将としての義久の存在なくして弟たちの活躍はありませんでした。 戦国時代の九州を代表する名将でした。

 

島津義弘(しまづ よしひろ)

天文4年(1535年)~元和5年(1619年)

【評価ポイント】

  • 九州での島津氏の快進撃の立役者
  • 明へ進撃した際のとんでもない大戦果
  • 何と言っても関ヶ原の敵中突破(島津の退き口)の凄まじさ

1分でわかる島津義弘列伝

義久の弟。島津四兄弟の次男坊。

島津家のみならず、戦国時代を代表する猛将。戦闘指揮能力という意味では、戦国最強に挙げる人も少なくありません。兄の義久を助け、島津の勢力拡大に大きく貢献しました。

 

朝鮮出兵では、7千の兵で20万の敵兵を粉砕。一説には3万8千近くの兵を討ち取ったとも言われ、その戦果を徳川家康が大絶賛しています。(数が多きすぎるので誇張はあると思われますが、家康も絶賛していることから、かなりの戦果を上げたことは確か)

また、露梁海戦と呼ばれる戦いでは、敵将 李舜臣を討ち取るなどの凄まじい活躍を見せました。

 

関ヶ原の戦いでは西軍に組し敗北しますが、1500の兵で徳川軍3万の軍勢に突撃を慣行。この敵中突破は、史上類の無い前進退却で『島津の退き口』と呼ばれ、今なおその凄まじさが語り継がれています。

 

高橋紹運(たかはし じょううん)

天文17年(1548年)~天正14年(1586年)

【評価ポイント】

  • 立花道雪と並ぶ大友家の猛将
  • 岩屋城の戦いで見せた壮絶な最期
  • 何気にルイス・フロイスにも「希代の名将」と称えられている

1分でわかる高橋紹運列伝

大友宗麟の家臣で、『立花道雪』と双璧を成す猛将。立花宗茂の実父でもあります。

 

大友家は耳川の戦いで島津義久に惨敗し、多くの家臣を失い、秋月氏など離反する武将もいた。明らかに衰退し始めた大友家でしたが、紹運は忠節を尽くし続けました。

 

そして、九州制覇を成し遂げるため、大友家の息の根を止めんと侵攻してきた島津家を居城 岩屋城で迎え撃つも、岩屋城に籠った紹運の兵は約700人、島津軍約4万の包囲されました。

 

しかし、紹運はわずか700の兵で島津軍4万に突撃を敢行。700人が全滅したものの、島津軍に甚大な被害を与えたと言われています。

 

自刃した紹運は、掻っ捌いた腹から自身の内臓を取り出して、敵に投げつけて亡くなったとも伝わっていいます。最期まで大友家に尽くし、壮絶に散った武将でした。

 

立花道雪(たちばな どうせつ)

永正10年(1513年)~天正13年(1585年)

【評価ポイント】

  • 大友家を代表する猛将
  • 足が不自由だったにも関わらず戦に臨み続ける気合い
  • 雷をたたっ斬った

1分でわかる立花道雪列伝

大友宗麟の家臣で、『高橋紹運』と双璧を成す猛将。女武将として知られる『立花誾千代(ぎんちよ)』の実父であり、誾千代の夫『立花宗茂』の義父にあたります。

 

若かりしときに落雷で歩行不能になるも、輿に乗り戦場で指揮を振るう姿は『鬼道雪』と恐れられました。落雷にあった際、雷神を切り伏せ一命をとりとめたという伝説も残っており、この時に使用した刀が有名な『雷切』です

 

耳川の戦いで大友家が敗北し衰退していく中でも、主君の宗麟の忠節を尽くし続け、陣中でその生涯を終えました。

 

立花宗茂(たちばな むねしげ)

永禄10年(1567年)~寛永19年(1643年)

【評価ポイント】

  • 島津氏との戦いや碧蹄館の戦い、大津城攻めなどでの大活躍
  • 文武両道を代表するような武将
  • 関ヶ原の戦いで敗れた後、唯一旧領に復帰した大名

【1分でわかる立花宗茂列伝】

『高橋紹運』の実子ですが、『立花道雪』の娘『誾千代(ぎんちよ)』と結婚し、義理の息子となっています。つまり、大友家を代表する猛将2人を父に持つ人物。

 

主家の大友家が豊臣秀吉の軍門に降ると、九州征伐軍の先鋒として島津家と戦いました。明への出兵においても、小早川隆景の麾下に属し碧蹄館(へきていかん)の戦いで大活躍し、日本軍の退路を確保するなど活躍。さらに関ヶ原の戦いでも、西軍に属し大津城攻略で活躍。

 

しかし、関ケ原の本戦で西軍が敗北したため領地を没収され浪人となりましたが、その後、徳川家康によって取り立てられ、さらに大阪夏の陣後に旧領である柳川に復帰。

関ヶ原の敗将の中で、旧領に復帰できたのは宗茂だけです。

 

鍋島直茂(なべしま なおしげ)

天文7年(1538年)~元和4年(1618年)

【評価ポイント】

  • 龍造寺隆信を支えた名将
  • 今山の夜襲での大勝利
  • 実力を認められ結果的に龍造寺家にとって代わっている

1分でわかる鍋島直茂列伝

鍋島清房の息子。龍造寺隆信の家臣を代表する人物で、幕末に活躍する佐賀藩の祖。

龍造寺氏が戦国大名化する契機となった『今山の戦い』では、夜襲を提案し500の兵で3000を破ると言う大金星を挙げました。

 

沖田畷の戦いで隆信が討死したあとは、隆信の嫡子『政家』を補佐し、龍造寺家存続に尽力。ところが政家が病気で、まともに政務が行えなかった為、徐々に直茂に権力が集中するようになっていきました。

その結果、主従関係が逆転してしまい、龍造寺氏の実権を直茂が引き継ぐような形になりました。

 

このような事実がある為、直茂は龍造寺健の権力を簒奪した人物と見なされることもあります。しかしながら、直茂自身は龍造寺旧臣への配慮を優先し、佐賀藩の初代藩主を辞退。息子の勝茂が初代藩主になっていることなどからも、直茂の実権掌握は、あくまで歴史の流れの中でそうなってしまった感が強いように感じます。

 

ともかくも、この直茂に始まる鍋島家の流れが、幕末に登場する佐賀藩の雄『鍋島閑叟(なべしま かんそう)』へと繋がっていくのです。

 

龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

享禄2年(1529年)~天正12年(1584年)

【評価ポイント】

  • 島津氏や大友氏と並ぶ九州を代表する大名
  • 肥前の一国人にすぎなかった龍造寺家を一代で大大名に昇華させた
  • 討死した際、龍造寺四天王が数名殉死しているので人望もあったのかもしれない

1分でわかる龍造寺隆信列伝

肥前(ひぜん、現在の長崎県と佐賀県の一部)を中心に、最盛期には筑前国、筑後国、肥後国、豊前国あたりまで勢力を広げた九州を代表する戦国大名の一人。

たいへんな巨漢であったらしく『肥前の熊』という異名で呼ばれています。

 

大友宗麟が攻めてきた時には、鍋島直茂の進言を受け入れ、500人足らずの奇襲隊を結成し、3000人の大友軍に夜襲を仕掛け大勝利。討ち取った敵兵の数は2000人にも及んだと言われています。

この戦いは『今山の戦い』と言い、龍造寺隆信躍進のキッカケになった重要な合戦として位置づけられています。

 

しかし、島津と激突した『沖田畷の戦い』で、隆信は島津軍の作戦に引っ掛かり、大軍が身動きの取れない狭い道に誘導され、強襲を受け大混乱に陥った龍造寺軍は崩壊。

ついに隆信は討ち取られてしまいました。

 

総大将の大名が討ち取られるというケースは、とても珍しいことです。桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元と並ぶ、不運な戦いでした。

 

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No.1は誰だ?

以上、戦国時代の九州地方を代表する名将を10人選んでみました。

 

では、この中でNo.1はだれなのか?と問われれば、個人的には『島津義弘』かなと思います。

九州というと、どうしても島津贔屓になってしまううえに個人的な好みを入っているのですが、それにしたって義弘の戦場での強さは戦国時代でも屈指であると考えています。

全国に目を向けても、戦場での強さという意味では、島津義弘、上杉謙信、真田昌幸の3名が、個人的には最強クラスだと思っています。

 

戦に強いだけが評価の対象ではないかもしれませんが、それでも義弘の強さはインパクトが強烈過ぎるのです。

 

ということで、個人的な思い入れが相当入ってしまいましたが、九州地方のNo.1武将は島津義弘とさせていただきます。

 

まとめ

以上、九州地方の名将10人でした。

 

ちなみに、順番をつけるとしたら・・・

  1. 島津義弘
  2. 鍋島直茂
  3. 島津義久
  4. 島津忠良
  5. 立花道雪
  6. 立花宗茂
  7. 高橋紹運
  8. 島津家久
  9. 龍造寺隆信
  10. 大友宗麟

という感じです。

 

ついでに、候補にあがったけど、惜しくも外れた武将は・・・

  • 龍造寺家兼
  • 島津歳久
  • 新納忠元
  • 秋月種実

の4名でした。

 

あと正直なところ、大友宗麟は入れるかかなり迷いました。

実際は龍造寺家兼の方が、ベスト10に相応しいと思ったのですが、秀吉の九州征伐の発火点になるなど、少なからず戦国時代に影響を与えた人物なので、今回は10人の中に宗麟を入れさせていただきました。

 

ということで、九州を代表する戦国武将10人でした。

 

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