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『清少納言に恋した男』拓麻呂です。
古文の授業にも登場する枕草子。
その作者 清少納言。
枕草子は知ってるけれど、清少納言のことはあんまり知らない人、結構多いんじゃないでしょうか?
今回は、魅力あふれる明るい女性 清少納言の生い立ちとその魅力に迫ってみたいと思います。
枕草子の作者 清少納言
出典:Wikipediaより 枕草子絵巻 鎌倉時代
清少納言の基本情報
諸説ありますが、清少納言は966年頃の生まれと言われています。
父は有名な歌人『清原元輔(きよはらのもとすけ)』
曾祖父も有名な歌人『清原深養父(ふかやぶ)』
なお母親は不明です。
肉親が有名な歌人だったこともあり、清少納言は父や曾祖父の名に気後れし、和歌に対する強いコンプレックスを持っていました。(参考:枕草子九十九段 五月の御精進のほど)
なお、清少納言という名前は、彼女の本名ではありません。
『清』は『清原』から、『少納言』はハッキリしていませんが、おそらく親戚に少納言という役職に就いていた人物がいたものと思われます。
つまり『清』+『少納言』の組み合わせで清少納言です。
これを女房名と言います。
現代風に捉えるならば、枕草子を書いた彼女のペンネームと思っていただいても良いかもしれません。
本名は伝わっていませんが、一説には『清原諾子(きよはらのなぎこ)』とも言われています。
現代では親しみを込めて『清女(せいじょ)』なんて呼ばれ方もしています。
清少納言の幼少期
966年頃に生まれた清少納言。
彼女が生まれた時、父の元輔は59歳。
末っ子だった清少納言は父にとても可愛がられて育ちます。
ちなみに長兄とは30歳もの年齢差がありました。
さらに、父親の元輔はたいへん明るい性格で、自分のハゲ頭をネタにして笑いを取るような人物だったと伝わっています。
そんな父の影響からか、清少納言はとても明るく素直な女性に成長します。
枕草子に登場する彼女は、いつも笑顔。
『笑ふ』という言葉が随所にでてくる枕草子は、一貫して彼女の明るさが押し出された作品です。
また、有名な歌人であった父から英才教育を受け、漢詩などにも通じた才女に成長していきます。
基本的には京都(平安京)で暮らしていた清少納言ですが、幼い頃は父の赴任先である周防国(現在の山口県)で暮らしていた時期もあったようです。
この時、周防国に向う船旅を思わせるような描写も枕草子に登場します。(参考:一六七段 遠くて近きもの)
清少納言の結婚
清少納言は15歳の頃、橘則光(たちばなののりみつ)という男性と結婚します。
15歳での結婚は当時としては珍しくありません。
気になる夫婦仲ですが、決して悪くはなかったようです。
実際、子供も授かっています。
ただ、則光は実直な体育会系だったので、知的な清少納言とは感覚のズレがあったようです。
則光は悪い人ではないけれど、ちょっと価値観が違う・・・そんな感じでしょうか。
そんな感覚の違いが元で、清少納言の(一度目の)結婚生活は約10年で終わりを迎えます。
清少納言はバツイチだったんです。
ちなみに離婚した後も則光とは親交があったようで、枕草子にも離婚後の出来事が綴られています。(参考:八四段 里にまかでたるに)
これが『ワカメ事件』と呼ばれるちょっと有名な章段です。
清少納言、いざ宮廷出仕へ
離婚を経験し、人生の岐路に立った清少納言。
この頃に宮廷へ上がり始めたと言われています。
清少納言この時三十路手前・・・当時としては十分オバサンです。
しかし、清少納言の人生で最も輝いた瞬間がこの時やってくるのです。
清少納言が宮廷で仕えた女性『中宮定子(ていし)』
定子は時の天皇 一条天皇のお后様です。
枕草子とは、清少納言が宮廷出仕していた約7年間の出来事が書かれた作品です。
ところが、宮廷出仕初期の頃はあまり雰囲気に馴染めなかったようで、そのときの情けない回想録も枕草子に綴られています。(参考:一八四段 宮に初めて参りたるころ)
しかし、少しずつ宮仕えにも慣れていった清少納言は、定子の元でその知的センスを発揮し始めます。
やがて、定子に最も認められ信頼される女房となり、清少納言の宮廷生活はとっても煌びやかなものになっていきました。
しかし、そんな幸せな生活は長くは続きませんでした。
定子は父や母を失い男たちの政争に巻き込まれ、徐々に宮廷での居場所を失っていきます。
そんな中、清少納言にも政争の火の粉が降りかかりました。
この時、彼女は心に大きな傷を負ってしまい、里に帰ってしまいます。
清少納言の引きこもり期間です。
しかし彼女はこの引きこもっていた期間に、枕草子の執筆を始めます。
しばらく引きこもって枕草子を書いていた清少納言でしたが、定子から復帰を要請され、やがて宮廷へ舞い戻ってきます。
が・・・・
程なくして定子がこの世を去ります。
出産が原因だったと言われています。
定子を失った事をきっかけに、清少納言は宮廷を去りました。
清少納言の晩年
宮廷を辞した清少納言は二度目の結婚を経験します。
この時の相手を藤原棟世(ふじわらのむねよ)と言います。
かなり年上の男性だったようですが、清少納言は棟世との間に一女を授かりました。
この子供が、小馬命婦(こまのみょうぶ)と言われる女性。
定子の後を継いだ彰子(しょうし)の女房として、後に宮廷へ上がっています。
これ以降の清少納言の足取りはハッキリしていません。
一説には棟世の領地へ一緒に付いて行ったとも言われています。
また、かなり落ちぶれてしまったとも言われていますが、真相はわかりません。
春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて 紫立ちたつ雲の細くたなびきたる
きっと春の明け方に風情を感じながら、静かな晩年を送っていたと思います。
そんな清少納言は1025年頃、この世を去ったと言われています。
享年59
枕草子という千年読み継がれる作品を残した才女は、ひっそりと定子の元に旅立って行きました。
紫式部との関係
最後に清少納言と紫式部の関係について触れておきます。
ここまで清少納言の生涯を見てきましたが、紫式部は登場していません。
そうなんです、清少納言と紫式部は面識がないんです。
よく平安女性の双璧のような扱いを受け、ライバル関係だったと言われる二人ですが、実際には全く関りがありません。
実際、紫式部が宮廷出仕を始めたのは、清少納言が宮廷を辞してから約6年後。
結構開きがあるのです。
なお清少納言と紫式部の関係性についてはコチラの記事もご覧ください。
今や伝説的な紫式部の辛辣なる清少納言評について書いてます。
素直な女性 清少納言
以上、清少納言の生涯を出来るだけ簡単にまとめてみました。
彼女は国風文化を形成する重要な活躍をした女性ですが、その生涯は案外不明なことが多いです。
なにしろ千年前ですし、大きな歴史的事件を起こした訳でもありません。
ただ枕草子を書いただけです。
でも、その枕草子があるからこそ、僕は清少納言という女性を知ることが出来ました。
枕草子に登場する清少納言は、なんでもズケズケ言ってしまうちょっと怖い女性かもしれません。
でも裏を返せば、それは素直な感情の裏返しでもあるのかな?って思うんです。
とっても真っすぐで嘘がつけない、ちょっとお茶目で可愛い女性。
それが僕にとっての清少納言なんです。
そんな清少納言が書いた枕草子の世界に触れてみたい方はこちらへどうぞ!
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。