足利義政が銀閣寺に込めた日本の心!京都に漂う『わびさび』の意味

ご来訪ありがとうございます!

『東山文化は日本の心』拓麻呂です。

仕事がうまくいかない・・・

人間関係がうまくいかない・・・

私生活がうまくいかない・・・

そんな時はどうしたら良いのでしょう?

室町幕府八代将軍 足利義政

彼は政治面、軍事面で職務を全うできなかったダメ将軍として後世に語り継がれています。

家庭内にも問題を抱え、妻や息子との関係も破綻。日本史上まれに見るダメ将軍のレッテルを貼られているのです。

そんなダメ将軍ですが、趣味の世界においては後世に多大な影響を及ぼしています。

銀閣寺に代表される『わび・さび』の世界観です。

仕事が上手くいかなくても、好きなことを徹底的に突き詰めた足利義政。

今回は、そんな彼のダメっぷり、そしてそんな彼がダメ将軍だったからこそ生まれた日本人の美意識『わび・さび』の世界観に迫ってみましょう。

スポンサーリンク

日本の心を生み出した八代将軍 足利義政

足利義政!意図せず将軍に!

1436年

義政は六代将軍 義教の三男として生まれます。

三男坊ですから次の将軍になる予定はなく、悠々自適な生活をおくるはずでした。

しかし、残念ながら歴史はそれを許しませんでした。

まず、嘉吉の変と言われる事件により、六代将軍義教は世を去ります。

やむなく長男の義勝が七代将軍に就任しますが、義勝は早世。

普通に考えれば次は次男(政知)が将軍になるところですが、次男坊は東国(関東)の統治をする為、伊豆に行ってしまいます。

まさかの、三男坊 義政の将軍就任。

こうして義政は時に流されるまま八代目の将軍になってしまったのです。

足利義政の暗黒時代が始まります。

義政の優柔不断で応仁の乱勃発!

足利義政と言えば、日本史上最悪の大合戦『応仁の乱』の時の将軍であり、そもそも、応仁の乱自体、元を正せば義政が原因で発生しています。

義政には子が無かった為、弟の義視(よしみ)を自身の後継者に指名します。

ところがその後、義政に子ができてしまいました。

後の九代将軍 義尚(よしひさ)です。

なんと言うか、義政はやる事なす事すべて裏目にでる人です。

そして、義政の奥さん日野富子は義尚を時期将軍にしようと画策。

自らのお腹を痛めて生んだ子ですから当然の発想です。

こうなると、次期将軍が約束されていた義視の立場が危うくなってきました。

義政に後継者として指名されていた弟の

義視

一方、義政の奥さん日野富子が生んだ子供(義政にとっても実子)

義尚

この『義視』vs『義尚』の対立。この時期将軍の座をかけた争いが応仁の乱の発端です。

つまり、義政の後継者争いです。

やがて、細川氏や山名氏といった全国の有力な守護大名を巻き込み、応仁の乱は約11年続くことになります。

何も出来なかったダメ将軍 足利義政

では、応仁の乱の真っ最中に義政は何をしていたのでしょうか?

義政は将軍です。

しかも自分の後継者を巡る争いですから、明確な態度を示し、この争いを治めねばなりません。

ところが・・・

優柔不断な彼は何も出来ませんでした・・・。

一応、停戦を試みたりしている・・・。

が・・・

全く効果はありませんでした・・・。

義政の後継者争いに端を発した応仁の乱ですが、彼は何一つ解決することが出来ませんでした・・・。

挙句の果てに将軍の立場でありながら中立の立場をとり、趣味の世界に没頭しはじめます・・・。引きこもりです。

しかし、この引きこもりが彼の人生を大きく変えることになるのです。

結局、応仁の乱は約11年の歳月を経て、勝手に集束していきます。

いざ銀閣寺建立へ!わびさびの出現

政治面では全く良いところのなかった義政はついに隠居を迎えます。

彼は余生を過ごす場所、趣味を追求する場所として東山山荘(ひがしやまさんそう)の建設に乗り出します。

この東山山荘の建設ですが、困窮する幕府財政を圧迫しており周囲の評価は著しくありませんでした。

しかし義政にはそんなこと関係ありませんでした。

理想の隠居生活を手に入れるため、引きこもって趣味に没頭するため。

彼は、これまでに見せた事のない強い意志で突き進んでいきます。

この東山山荘は、細かな箇所にも義政の美意識が繁栄され、何度もダメ出しを行ったと言われています。

そして・・・。

この東山山荘で生まれたものこそが、銀閣寺に代表される『わび・さび』の世界です。

質素なものに美を見出す、後世の我々はこれを『東山文化』(ひがしやまぶんか)と呼んでいます。

義政はこの東山山荘に引きこもり、絵画や茶碗などを収集して、自身の追求する『美』に囲まれた余生を過ごします。

きっと幸せだったことでしょう。

政治では全く良いところのなかった義政。

しかし、彼は世間の喧騒を離れ、ついに自身の理想を実現したのです。

将軍足利義政から文化人足利義政へ

ようやく理想の生活を手に入れた義政。

しかし彼は東山山荘の完成を見ることなくこの世を去りました。

そんな彼が残した東山山荘は、現在『銀閣寺』と名を変えて京都の観光名所として人気を集めています。

この銀閣寺こそが『東山文化』の象徴、つまり『わび・さび』の価値観として現代日本人の心に根付いているのです。

日本史上まれに見るダメ将軍『足利義政』。

しかし彼は『わび・さび』という日本人ならではの世界観を後世に残し、現代まで大きな影響を与え続けています。

仕事がダメでも趣味の世界で大成した『文化人』足利義政。

仕事に疲れた時、人生に迷った時・・・

義政は趣味を追求し続けることで開ける未来があることを示し続けているのです。

スポンサーリンク

銀閣寺が生み出した『日本の心』の出発点

三代将軍 足利義満の金閣寺はご存知かと思います。

正式名称を鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)。

その名が示す通り金箔に包まれたド派手な建築物です。

それに対し義政の銀閣寺。

正式名称を慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)。

こちらは銀で装飾されていません。

では何故『銀』閣寺と呼ばれるのでしょう。

僕はこう考えています。

銀閣寺の銀は『いぶし銀』の銀ではないか、と・・・。

質素な美を表現する銀閣寺、それはまさしくいぶし銀。

『わび・さび』というフィルターを通すことで初めて見えてくる美しさ。

外観は飾らずとも、内側に輝きを秘めた銀閣寺。

アメリカ人の日本文化研究の第一人者ドナルド・キーン氏は、義政の生み出した銀閣寺、東山文化をこう評しています。

『義政の東山文化こそ、日本の心の出発点である』

義政が原因で起こった応仁の乱の詳細はコチラ

応仁の乱の原因や結果をわかりやすく簡単解説!京都が燃えた11年
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 1467年『応仁の乱』 約11年の長きに渡る争いで、京都を焼け...

では、今回はこの辺で!ありがとうございました。


↓知識ゼロでも大丈夫!社会人のための歴史の授業↓

お勧めの記事(一部広告含む)
スポンサーリンク

シェアする

フォローする

コメントの入力は終了しました。