応仁の乱の原因や結果をわかりやすく簡単解説!京都が燃えた11年

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時代背景

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

1467年『応仁の乱』

 

約11年の長きに渡る争いで、京都を焼け野原にしたと言われる、日本史を代表する大合戦です。

 

しかし、この応仁の乱・・・名前は知っていてもどんな争いだったかは案外知られていないように感じます。

 

まず、応仁の乱が起こった室町時代自体人気がない。

そしてもうひとつ、おそらくこれが最も大きな要因ですが、発生から終息までの経緯が複雑すぎる・・

 

この後にやってくる戦国時代は大人気ですが、その幕開けを告げる応仁の乱とは一体何だったのか?

 

今回は、そんな応仁の乱の発生原因と結果、そして僕なりの応仁の乱に対する考えをお伝えしていこうと思います。

 

 

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応仁の乱とは?

発生原因

まずは応仁の乱の発生原因。

約11年も続く争いは何故発生したのでしょうか?

 

結論から言います。

 

将軍が優柔不断だったからです。

 

この当時の将軍と言えば、銀閣寺で有名な室町幕府八代将軍『足利義政』

出典:Wikipediaより

 

この義政が自身の後継者を決められなかったが為に、応仁の乱は勃発してしまうのです。

 

 

その経緯を簡単に追いかけてみましょう。

 

当初、義政には子が無かった為、弟の義視(よしみ)を自身の後継者に指名します。

ところがその後、義政に子ができてしまいました。

 

後の九代将軍 義尚(よしひさ)です。

 

 

そして、義政の奥さん日野富子は義尚を時期将軍にしようと画策。

自らのお腹を痛めて生んだ子ですから当然の発想です。

 

こうなると、次期将軍が約束されていた義視の立場が危うくなってきます。

 

義政に後継者として指名されていた弟の

義視

 

一方、義政の奥さん日野富子が生んだ子供(義政にとっても実子)

義尚

 

この『義視』vs『義尚』の対立。

この時期将軍の座をかけた争いが応仁の乱の発端です。

 

つまり、義政の後継者争いです。

 

しかし、義政は将軍職をどちらに譲るでもなく、文化的な趣味に傾倒し自らの意思をハッキリ示すことができませんでした。

 

余談ながら、この文化人への傾倒が後の銀閣寺建立に繋がっていきます。

 

 

 

有力守護大名も巻き込み11年争い続ける

将軍の座をかけて対立した『義視(よしみ)』『義尚(よしひさ)』。

 

やがて、有力な守護大名たちも、この争いに加わり始めます。

守護大名とは、一定の領地を持つ力のある幕府の役人みたいなもんです。

もう少し後の時代になって登場する『戦国大名』とはちょっと立ち位置が違います。

 

この時、義視に加担した有力守護大名が『山名宗全(やまな そうぜん)』

こちらを『西軍』と言います。

 

一方、義尚に加担した有力守護大名が『細川勝元(ほそかわ かつもと)』

こっちは『東軍』です。

 

やがて他の守護大名たちも、東軍と西軍にそれぞれに加担していき、争いの規模はどんどん大きくなって行きます。

 

大内氏、畠山氏、斯波氏・・・赤松氏、六角氏、伊勢氏に土岐氏・・・

ともかくも全国の守護大名たちが合戦に加わり、もはや収集がつかなくなります。

 

そして、応仁の乱とはここから先が混沌を極めるのです。

 

最初は西軍に味方していたのに、いつの間にやら東軍へ・・

逆に東軍に味方していたのに、気が付けば西軍へ・・。

 

こんな感じで、各守護大名たちの思惑が渦巻き、あっちに味方したり、こっちに味方したりしながら11年続くのが応仁の乱です。

 

ここが応仁の乱が敬遠される一番の理由ではないかと思います・・。

 

各守護大名が開戦当初はどちらに味方してたのか?その後、どの守護大名がどっちに寝返ったのか?

 

ここを書き始めると絶対に簡単じゃなくなるので気になる方は、こちらのリンクからご確認ください。

 

 

応仁の乱終結

そして約11年後・・。

 

応仁の乱はようやく終結します。

なぜ11年も続いた争いが終結できたのか?

 

結論から言います。

 

飽きたからです!

 

乱の途中で、開戦当初の有力者『細川勝元』と『山名宗全』はこの世を去っています。

義政も乱の最中に将軍職を義尚に譲っています。

 

しかし、その後も惰性でダラダラと争い続けた応仁の乱。

 

やがて『もう。いいんじゃね?』みたいな空気になり、各所で和睦が成立。

極端な言い方をすれば、時代が勝手に終わらせた・・・それが応仁の乱の結末です。

 

八代将軍 義政の優柔不断に始まり、みんながどうでも良くなって終結した応仁の乱。

 

応仁の乱には勝者も敗者もありません。

ただただ11年争い続け、いつのまにか争う理由も忘れ去られた応仁の乱。

 

1467年に始まった応仁の乱は、歴史の授業でこう覚えます。

 

『人よ空しい(1467)応仁の乱』・・・・

 

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応仁の乱が日本に与えた影響

このように、とっても空しい争いだった応仁の乱。

 

しかし、僕はこの乱は日本史にとって非常に重要な出来事であったと考えています。

 

 

それは、この後にやってくる戦国時代の火蓋が切って落とされた事。

 

戦国時代の到来により、日本の形は大きく変わっていきます。

 

これまでの権力者というのは、何だかんだでみんな天皇家との深い関係があります。

 

藤原氏は、娘を天皇の妻とすることで権力を掌握してきました。

つまり、その間に授かった子は天皇家の血を引いています。

平氏や源氏も天皇家から臣籍降下(皇室ではなくなること)した家柄です。

足利氏はその源氏の末裔です。

 

 

しかし、応仁の乱を契機に権力者の在り方は変わります。

 

力こそが正義である戦国時代の到来により、全国各地で力のある者たちが活躍し始めます。

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・

彼らは皇室の血を引いていません。

権威を示すため自称したり、秀吉のように関白になったりはしていますが、直接的な血縁関係は無いのです。

 

そして、その流れは現代まで続いています。

 

現代の総理大臣や、政治家の有力な方は皇室出身ではありません。

 

僕は日本の形が大きく変わった瞬間、そして権力者の在り方を大きく変えたのが応仁の乱であると考えています。

 

応仁の乱以前は、日本史の前半戦。

応仁の乱以降は、日本史の後半戦。

 

そんな感じです。

 

名前は知ってても、今イチ中身が分かりづらい応仁の乱。

しかしその実態は、日本が大きな変貌を遂げる為の11年だったと言えるでしょう。

 

 

最近の応仁の乱

最後にちょっと余談です。

 

最近では応仁の乱を『応仁・文明の乱』と言ったりするそうです。

 

この乱が始まったのは元号が『応仁』の時でしたが、乱の最中に『文明』に改元されました。

しかも乱が行われていたのは、ほとんど元号が『文明』だった時でした。

 

なので『応仁・文明の乱』なんだそうです。

 

歴史の教科書はどんどん変わっていきますね・・。

 

 

応仁の乱の原因を作った優柔不断な将軍様の記事はコチラです。

足利義政が銀閣寺に込めた日本の心!京都に漂う『わびさび』の意味
...

 

 

では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。