ご来訪ありがとうございます。
拓麻呂です。
幕末の長州藩が生んだ暴れ牛『高杉晋作』
幕末の人物の中でも人気のある高杉晋作ですが、彼の活躍は明治維新とその後の日本に、どのような影響を与えたのでしょうか?
高杉晋作の活躍がもたらした明治維新。
その真相に迫ってみたいと思います。
高杉晋作の活躍が日本に残したもの
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
功山寺決起!!
高杉晋作が活躍した出来事と言えば、奇兵隊の結成や下関戦争(馬関戦争)後の和平交渉などいろいろありますが、今回注目したいのが『功山寺決起(功山寺挙兵)』です。
功山寺決起とは、幕府に恭順しようとしていた長州藩の主導者たち(俗論派)に、高杉率いる革命児たち(正義派)が戦いを挑んだ戦いです。
幕府の力を背景にした俗論派は、正義派を圧倒する兵力を誇っており、高杉たちに勝算はほとんどありませんでした。
ところが、高杉たち正義派は、約80名ほどの人数で何倍もの兵力を誇る俗論派を蹴散らしてしまいます。
この功山寺決起により、長州藩の主導権は正義派に移ることとなり、明治維新の大きな原動力になっていきます。
功山寺決起の影響
では、この功山寺決起が明治維新、そしてその後の日本に与えた影響とは、どのようなものなのでしょうか?
功山寺決起とは、いわば長州藩(俗論派)と、反乱分子(正義派)の戦いです。
倒幕を志す高杉たち正義派にとっては、幕府に恭順する俗論派とは考えが異なります。
欧米列強に負けない強い日本を作る為には、古い権力である幕府を倒すのか、それともこれまでの路線を踏襲し、幕府の力を背景に外国と渡り合うのか?
これがお互いの考え方の違いです。
明治維新とは、幕府が倒れ、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允たちにより明治新政府が樹立された出来事のことです。
つまり、日本という大枠で俯瞰した場合、幕府に味方した者たちがいわゆる『佐幕派』であり、西郷や木戸たちは『倒幕派』になります。
これを長州藩に置き換えると・・・
『佐幕派』→→→『俗論派』
『倒幕派』→→→『正義派』
となります。
まずは、ここを覚えておいてください。
小さな大革命『功山寺決起』
江戸時代における幕府というのは絶対的な存在です。
その幕府の象徴が将軍であり公儀です。
公儀に反する行為など、許されるはずがありません。
そして幕府が小さくなったようなものが『藩』であり、各地方の公儀が『藩』なのです。
当然、藩主に無礼を働いたりすれば、切腹などの大罪になります。
江戸時代とは地方分権の側面が強いので、『藩』という存在は幕府と同様、その地方における公儀になります。
明治維新とは、倒幕派が『日本』という単位で公儀を打倒した出来事です。
そして、功山寺決起とは、正義派が『藩』という単位で公儀を打倒した出来事です。
『日本』と『藩』という大小の違いはあれど、結果的にやっていることは同じです。
小さい規模ながらも、公儀を打倒した出来事が功山寺決起です。
つまり功山寺決起とは、倒幕に先立ち公儀に牙をむいて実現した大革命。
高杉晋作は誰よりも先に、古い体制を壊した革命児ということになります。
この出来事が、倒幕派たちの心を奮い立たせ、良き先例とされたことは想像に難くありません。
高杉晋作は幕末において、誰よりも先に公儀を打倒した人物であり、その後の明治維新に繋がるビジョンを、多くの倒幕派たちに提示した人物であると言えるのではないでしょうか。
高杉晋作がその後の日本に与えた影響
以上、高杉晋作が明治維新に与えた影響でした。
明治維新がその後の日本の形を決定づけたのは周知の通りです。
現代の日本は、明治維新後と直結しています。
現代日本を形成した明治維新。
僕は明治維新に功績のあった人物を3名挙げよ!と言われたら、この三人を選びます。
一人は大久保利通。
一人は西郷隆盛。
そして、一人は高杉晋作。
高杉は残念ながら病を得て早くに亡くなってしまい、西郷や大久保のように新しい日本を見ることが出来ませんでした。
ですが、西郷や大久保が見た新しい日本の先駆けを成した人物こそが高杉晋作であり、功山寺決起です。
高杉亡き後も、彼が目指した新しい日本は、功山寺決起という先例に支えられ、明治維新と言う形になって実現していくことになるのです。
そんな高杉晋作の、おもしろき生涯はコチラの記事をご覧ください!
明治維新のまとめ記事はコチラ
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。