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拓麻呂です。
江戸幕府15代将軍
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
江戸時代最後の将軍となった徳川慶喜は、大政奉還により政権を朝廷に返上。
その後の明治新政府樹立により、歴史の表舞台から姿を消すことになります。
明治と言う新しい日本が完成した後、徳川慶喜は一体何をしていたのでしょうか?
今回は、あまり語られることの無い、大政奉還後、そして明治維新後の徳川慶喜に迫っていきたいと思います。
実は、大正まで生き延びた慶喜の余生とは、どのようなものだったのでしょうか?
最後の将軍 徳川慶喜
出典:Wikipediaより
大政奉還から戊辰戦争へ
1867年(慶応3年)、薩摩藩と長州藩が倒幕に邁進していく中、慶喜は二条城で朝廷に政権を返上することになります。
『大政奉還』です。
しかし、慶喜は大政奉還によって歴史の表舞台から退いた訳ではありません。
大政を奉還したとは言え、薩摩藩と長州藩は明治新政府の樹立を宣言し、慶喜の徹底排除を目論んでいました。
そんな動きがある中で、慶喜は会津藩と桑名藩を率いて挙兵。
これが鳥羽伏見の戦いの発端であり、鳥羽伏見を含む『戊辰戦争』に突入していくことになります。
慶喜逃亡
しかし、慶喜はどんどん追いつめられていきました。
そんな中でも慶喜は、幕府軍を叱咤激励し続けます。
『最後の一兵になっても決して退いてはならぬ!!』
徹底抗戦の構えを見せているかのように見えた慶喜。
ところが・・・・
彼は幕府軍を鼓舞しておきながら、自身は船に乗って海路江戸へ逃亡してしまいました。
しかし、明治新政府軍は慶喜追討の手を緩めることはありません。
朝敵となってしまった慶喜に対し追討令が下ると、明治新政府軍は江戸に向かって進軍を開始。
この時の慶喜は、すでに戦意を失っていました。
幕府の徹底交戦派を説得し、事態の収拾を勝海舟に丸投げ、自ら上野寛永寺に謹慎してしまいます。
事態の収拾を任された勝海舟は、明治新政府軍を率いる西郷隆盛との会談に臨みます。
この会談により、江戸の街は戦禍に巻き込まれることなく和平が成立。
これが、後世まで語り継がれる『江戸無血開城』です。
世に名高い『無血開城』の裏では、慶喜による見事な?逃亡劇があったのです。
慶喜の余生
自ら逃亡し、寛永寺に謹慎していた慶喜でしたが、明治新政府は慶喜への圧力を弱めませんでした。
その結果、慶喜は隠居することになり、徳川家当主の座から退くことになります。
隠居した慶喜は静岡県に移り住み、趣味三昧の余生を送っていたようです。
写真・狩猟・投網・囲碁などを楽しみ、悠々自適な生活を送っていた慶喜には、元将軍としての面影は無かったと伝わっています。
この写真は、晩年の慶喜です。
出典:Wikipediaより
明治30年には東京の巣鴨に移り住み、明治天皇に謁見するなどしています。
後に貴族院議員(現在の衆議院みたいなもの)となり、政治の舞台への復帰も果たしました。
そして、貴族院議員を約8年勤めた後に、再度隠居生活に突入し、再び趣味三昧の生活を送っていたそうです。
1913年、慶喜は病を得てこの世を去ります。
享年77
大正2年まで生き抜いた大往生でした。
将軍の呪縛
慶喜は、次期将軍の座に決まる際、このような手紙に残しています。
『骨が折れるので将軍に成って失敗するより、最初から将軍に成らない方が大いに良い』
どうやら慶喜は将軍になることに乗り気ではなかったようです。
時代の流れに翻弄され、自分の意志とは関係なく将軍職になってしまった慶喜。
そんな状況下でも、将軍として振る舞い続けましたが、心の奥底では常に『将軍』という立場に疑問を持っていたのかもしれません。
将軍という呪縛から、一刻も早く解き放たれたかったのかもしれません。
その結果が、戊辰戦争での逃亡であり、江戸開城時の無責任な謹慎だったのかもしれません。
しかしながら、慶喜がさっさと江戸を捨てて謹慎したからこそ、無血開城が成ったとも言えるかもしれません。
もし、慶喜が徹底抗戦の構えを見せていたら、西郷隆盛も間違いなく応戦したでしょう。
そうなれば、当然江戸の街は戦場になります。
さらに妄想するならば、慶喜が抗戦していたら、明治維新の実現は、もっと遅れていたかもしれません。
『将軍』という呪縛から解き放たれた慶喜は、隠居後に趣味三昧の悠々自適な生活を送りました。
もしかしたら、この生活こそが、若かりし日から思い描いていた慶喜の理想の生活だったのかもしれません。
江戸幕府最後の将軍 徳川慶喜。
自ら謹慎を選び、将軍職を放り投げたことで、結果的に早まった明治維新。
幕府側の人間でありながらも、明治維新を実現させた一人の立役者。
僕は徳川慶喜に、そんな印象を持っています。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。