カステラ大好き!徳川家定と篤姫の本当の夫婦仲は?子供はいたの?

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人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

江戸幕府13代将軍『徳川家定(とくがわ いえさだ)』

 

篤姫を御台所(みだいどころ、将軍の奥さん)として迎え、ペリー率いる黒船が浦賀にやってきた時の将軍です。

 

一説には、とても病弱で、将軍をしての務めを全う出来なかったと言われる家定。

 

そんな家定と篤姫の本当の夫婦仲はどうだったのでしょうか?

そして、二人は子宝に恵まれたのでしょうか?

 

残念ながら、愛し合う夫婦とは言えない関係でしたが、確固たる信頼は築けていたようです。

 

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スイーツ男子『徳川家定』

出典:Wikipediaより

 

篤姫が嫁いだ経緯

まずは、家定と篤姫の夫婦仲について見ていきましょう。

そのために、篤姫が家定に嫁いだ経緯を確認してみます。

 

一般的には病弱だった家定の後継者を『一橋慶喜(徳川慶喜)』に推す、薩摩藩主『島津斉彬』の意向で嫁ぐことになった、と言われています。

 

斉彬が幕府内で優位に立つための、スパイのような役割です。

つまり、政略結婚です。

 

こういった政略結婚は、幕末以前はごくごく普通のことなので、昔の人は結婚してからお互いを好きになる、信頼すると言った流れが普通です。

 

現代では、『恋愛→結婚』ですが、当時は基本的に『結婚→恋愛』なのです。

 

 

そして、もうひとつの説として、家定の祖父(家斉)が薩摩藩から妻を迎えて、たくさんの子宝に恵まれたため、祖父にあやかって薩摩の篤姫を嫁がせた、とも言われています。

 

今は、こっちの説の方が有力になってきています。

 

とは言え、どちらの場合も周囲の斡旋による輿入れなので、結婚した段階では家定と篤姫の間に恋愛感情は無かったはずです。

お互い会ったことも無いわけですからね。

 

なので、結婚後の二人の関係を見て行きましょう。

 

 

篤姫との夫婦仲

家定と篤姫の夫婦生活ですが、家定の逝去により、わずか1年半で終わりを迎えています。

 

恋愛感情が無い状態で結婚した2人ですから、1年半でどれほど夫婦の信頼関係を築けたのか、少々疑問です。

 

元々病弱だった家定ですが、将軍になってからはさらに病状が悪化し、篤姫輿入れ時には廃人のようだったとも言われています。

 

ペリーの後に日本にやってきた『ハリス』という人物が、家定に謁見した時の状況をこう語っています。

 

家定は言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動を取った

この記録により、家定は脳性麻痺だったのではないかとも言われています。

 

 

また、家定は男性としての機能があまり無く、女性への関心が薄かったようで、夜の営みもほとんど無かったと思われます。

 

実際、大奥にもほとんど関心を示していません。

 

その結果、二人の間に子供は生まれませんでした。

 

と言うか、時期将軍を『一橋慶喜』にすると言う斉彬の意向で嫁いだ場合、家定と篤姫の間に子供が生まれたら、話がややこしくなってきます。

 

残念ながら、家定と篤姫の夫婦関係は、あまり良いとは言えませんでした

 

 

趣味はお菓子作りだった家定

そんな家定ですが、お菓子作りが趣味でした。

よくカステラや饅頭を作っており、時には芋料理を作り周囲に振舞っていました。

 

そんな経緯で家定は『イモ公方(いもくぼう)』とも呼ばれています。

 

想像を服らませれば、この時、自ら作ったスイーツを篤姫にも振舞っていた、と言う説もあります。

 

実際、ペリーが来航した際に献上されたミシンを、篤姫にプレゼントしています。

 

こういった事実から、篤姫は家定の優しさに惹かれていった可能性はあるかもしれません。

 

家定は、一般的に言われているような暗愚では無かったという記録も残っています。

夫婦の営みは無かったかもしれませんが、お互いに信頼し合う関係であった可能性は捨てきれません。

 

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篤姫の決意に見る夫婦仲

このように、必ずしも幸せな夫婦仲だったとは言えないかもしれません。

ですが、ひとつだけ見逃してはいけない事があります。

 

それは篤姫の決意です。

 

篤姫は家定に嫁いで以降、二度と故郷薩摩に帰ることはありませんでした。

 

また、西郷隆盛が江戸に攻めてきた時、篤姫は幕府を守る為、西郷さんに兵を引くよう手紙を送っています。

 

故郷の薩摩、嫁ぎ先の徳川家。

板挟みになった篤姫は、嫁ぎ先である徳川家を選びました。

 

亡き家定の妻として、徳川家の女として、二度と故郷の土を踏むことの無かった篤姫は大きな決意を胸に御台所の地位を全うしました。

 

その決意の裏には、もしかしたら家定の存在があったのかもしれません。

 

家定の優しさに触れ、その信頼関係を深めていったからこそ、篤姫は薩摩ではなく徳川家を選んだのではないか。

 

確かに夫婦関係は希薄だったかもしれません。

しかし、二人の間には、夫婦関係を超えた信頼関係が確かに存在していた。

 

篤姫の決意に触れる度、僕はそんなことを感じています。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。