橋本左内 安政の大獄に散る!西郷隆盛との関係や生涯を簡単解説

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人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

多くの志士たちが、志半ばで散った安政の大獄。

その志士の中に一人の有能な男がいました。

 

『橋本左内(はしもと さない)』

 

幕末の四賢侯の一角、越前福井藩主『松平春嶽』に仕え、周囲からもその才能を称えられた秀才です。

 

 

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秀才!橋本左内

出典:Wikipediaより

橋本左内の生涯

橋本左内は1534年に越前国(現在の福井県)に生まれます。

 

やがて大阪に出て、医者であり蘭学者でもある『緒方洪庵(おがた こうあん)』が主催する『適塾』の門下生となります。

 

緒方洪庵の適塾は、多くの人材を輩出しました。

 

有名な人物としては、『福沢諭吉』『大村益次郎』『大鳥圭介』などがいます。

そんな幕末から明治にかけての大物たちと共に学んでいたのが橋本左内です。

 

やがて左内は、さらに大物たちとの人脈を広げていきます。

 

『藤田東湖(ふじた とうこ)』、『梅田雲浜(うめだ うんぴん)』、『横井小楠(よこい しょうなん)』などなど。

その中でも幕末を代表する、有名な超大物がいます。

 

『西郷隆盛』です。

 

適塾で学び、西郷さんらと交流を深めていった左内は、やがて福井藩に取り立てられ、大きな活躍の場を与えられます。

 

なお、左内の思想は攘夷派ではなく、西洋の技術を積極的に取り入れ、日本を近代化させるというものでした。

また、当時の長州や薩摩のような討幕は考えておらず、あくまでも公武合体論者であったところが、左内の先見性を物語っています。

 

↓幕末志士たちの思想に関する記事はコチラです↓

知っておきたい明治維新の時代背景!幕末の思想『尊王攘夷』とは?
...

 

 

同時代の人々の評価

そんな橋本佐内ですが、同時代の人々からも、その才能を大絶賛されています。

その評価を見てみましょう。

 

『先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す』

訳:先輩として尊敬できる人物は藤田東湖であり、同輩で尊敬できる人物は橋本左内である

ー西郷隆盛ー

「東湖の後、又東湖あり」

訳:(優秀な)藤田東湖亡き後、第二の東湖(左内のこと)が現れた

ー武田耕雲斎ー

越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる(中略)益々左内と半面なきを嘆ず

訳:橋本左内は横顔を見たことがある程度の間柄でしかない事が、とても残念だ

ー吉田松陰ー

池中の蛟竜

訳:(左内の才能は)眠れる龍のような存在である

ー緒方洪庵ー

 

このように大絶賛されています。

西郷さんや松陰先生からも、認められた秀才が橋本左内なのです。

 

 

15歳で啓発録の執筆

そんな左内ですが、子供の頃は自分に自信のない内気な少年でした。

彼は幼い頃の自分をこう評しています。

 

自分は何をしてもおろそかで、注意が行き届かず、しかも弱々しく、ぬるい性格であるため、いくら勉強しても進歩がないように思う。
一体、自分はどうしてこんなに駄目なんだろう??

 

そんなダメな自分へ宛てて、15歳の時にある書物の執筆を始めました。

 

その書を『啓発録』と言います。

 

左内は啓発録で、このようなことを語っています。

概要を箇条書きにしてみます。

 

  • 人の個性は人それぞれ、しかし成功する為には反省や努力が必要。いきなり勉強ができるようになる魔法は存在しない
  • 子供のような甘えは捨てるべきである
  • 人に負けたくないという想いこそが、人生を変えるエネルギーになる
  • 志の無い者に成長は無い
  • 素晴らしい人物の行いに学び、その人物を超えるよう努力を怠らないことが大事である
  • 友人が誤った方向へ進もうとしているのなら、その道を正してやらねばならない

 

このように、左内は自信への戒めとして、啓発録を書き残しました。

とても15歳の子供が書いた内容とは思えない、志の高い内容になっています。

 

 

安政の大獄に散る

1859年 安政の大獄。

安政の大獄 犠牲者一覧!なぜ吉田松陰や橋本左内は処刑されたのか?
...

周囲からもその才能を絶賛されていた橋本左内、最後の時がやってきます。

 

当時、将軍継嗣問題で揺れていた幕府。

左内の主である福井藩主『松平春嶽(まつだいら しゅんがく)』は『一橋慶喜(後の徳川慶喜)』を時期将軍に推していました。

当然、左内も一橋慶喜擁立派です。

 

しかし、この時幕政を牛耳っていた『井伊直弼』は『徳川慶福(とくがわ よしとみ)』を時期将軍に推していました。

 

これの将軍継嗣問題こそが、安政の大獄の発端です。

 

 

さらに、井伊直弼は朝廷の許可を得ず、独断でアメリカと『日米修好通商条約』を締結。

井伊の独断専行に抗議するため、左内の主『松平春嶽』は江戸に登城。

しかし、これが問題となりました。

 

江戸城へ許可なく乗り込んできた春嶽は謹慎処分となります。

 

この時、一橋慶喜を時期将軍に据える為、各地を飛び回っていた左内。

これが原因で、井伊直弼に目を付けられてしまいました。

 

左内は将軍継嗣問題へ介入した罪で、幕府に捕縛されます。

 

安政6年10月7日 橋本左内 斬首。

享年26

 

その才能を絶賛され、日本の近代化を目指して駆け抜けた26年の短い人生。

左内の志は、夢半ばで終わりを迎えました。

 

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もし橋本左内が長生きしていたら

安政の大獄により、志半ばで散った橋本左内。

吉田松陰など多くの人物も犠牲になりました。

 

当時の人物からも、その才能を絶賛されている橋本左内。

 

もし、彼がもっと長生きしていたら・・・

明治という新しい日本を見ることが出来たら・・

 

間違いなく明治新政府の要職についていたことでしょう。

 

もししそうだとしたら、西郷さんや大久保利通、木戸孝允と、どんな絡みをみせていただろう?

もしかしたら、後の大久保利通の独断専行を抑える人物になり得たんじゃ?

 

もし彼がもっと長生きしていたら、もしかしたら日本は違った形になっていたかもしれない・・。

 

そんな妄想すらしてしまいます。

 

秀才 橋本左内。

彼の存在は、現代でもなお、強烈な存在として生き続けています。

 

 

では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。