吉田松陰の『松下村塾』門下生一覧!明治維新に命をかけた教え子たち

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人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

明治維新へと導く人材を、多く輩出した私塾。

明治新政府の舵取りをしていく人材をを多く輩出した私塾。

 

吉田松陰が主催した『松下村塾(しょうかそんじゅく)』です。

 

叔父の玉木文之進から引き継ぎ、松陰先生が主催していた松下村塾は、現在 世界遺産にも登録され多くの人に親しまれています。

 

そんな松下村塾から巣立っていった塾生たちを、簡単な概略付きでまとめてみました。

※紹介順は、順不同です。

 

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松下村塾が輩出した人材たち

出典:Wikipedia 山口県文書館蔵より

 

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1839年〜1867年(享年27)

松下村塾四天王の一人、久坂玄瑞と双璧を成す松下村塾を代表的する人物。

松下村塾生の中で、最も有名ではないでしょうか。

 

身分に左右されない志ある者を集めた『奇兵隊』を結成。

長州藩が四カ国連合艦隊に砲撃された『馬関戦争』の敗戦処理では、古事記を暗唱し彦島の占領を阻止。

 

功山寺挙兵での奇跡の大勝利により、明治維新は一気に加速していくことになります。

 

しかし、肺結核により明治という新しい日本を見ることなく世を去りました。

ドラマみたいな高杉晋作の生涯!名言・辞世の句が語る破天荒な人生
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久坂玄瑞(くさか げんずい)

出典:Wikipediaより

 

1840年〜1864年(享年25)

松下村塾四天王の一人、高杉晋作と双璧を成す松下村塾を代表的する人物。

松陰先生の妹『文』の最初の夫。

 

学問、剣術などにも精通し、さらに美男子でもあった秀才。

松陰先生との手紙のやりとりで、早くからその才能を見込まれていました。

 

八月十八日の政変、池田屋事件などで力を失った長州藩を挽回させるべく、京都に進軍。

禁門の変(蛤御門の変)で薩摩・会津連合軍に敗れ自害。

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吉田稔磨(よしだ としまろ)

1841年〜1864年(享年24)

松下村塾四天王の一人で、高杉晋作の『奇兵隊』にも参加。

高杉は山縣有朋と吉田稔磨を比較して『吉田が座敷にいるのなら、山縣は玄関番ですらない』と稔磨を高く評価していました。

 

幼い頃から真面目で無口、眼光鋭い少年だったと伝わっています。

 

長州藩が幕府の軍艦を襲撃した『朝陽丸事件』では、烏帽子・直垂姿で船内に乗り込み、説得に成功。

 

新選組に襲撃された池田屋事件において、激しい斬り合いの末、討死。

 

 

入江九一(いりえ くいち)

1837年〜1864年(享年28)

松下村塾四天王の一人で、高杉晋作の『奇兵隊』にも参加。

 

松陰先生が、弱腰の幕府の老中 間部 詮勝の暗殺を企てた際、他の四天王が猛反対する中、入江だけは賛成し、松陰先生から『度胸ある者』と評されます。

 

禁門の変では、久坂玄瑞部隊の一員として参戦。

久坂自害の後、脱出を図りましたが失敗し討死。

 

 

伊藤博文(いとう ひろぶみ)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1841年〜1909年(享年68)

初代内閣総理大臣。

いつも高杉晋作の傍らで活躍した、高杉の弟分。

功山寺挙兵の際は、1番最初に高杉の元に駆け付けました。

 

大久保利通が倒れた後に、内務省を継承。

大日本帝国憲法の発布にも尽力。

 

韓国併合の後、韓国のハルピン駅で凶弾に倒れました。

 

 

山縣有朋(やまがた ありとも)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1838年〜1922年(享年83)

久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入塾。

しかしながら、入塾が遅かったため、松下村塾へ在籍していた期間は1ヶ月程度。

高杉晋作の功山寺挙兵でも、最後に駆け付けたりと、いつも遅れてやってくる人物。

 

明治政府では、内閣総理大臣を始め、要職を歴任。

 

大村益次郎亡き後、後継者として日本陸軍を牽引。

『陸軍に山縣あり』と評されます。

 

83歳の長寿を全うしました。

 

 

山田顕義(やまだ あきよし)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1844年〜1892年(享年49)

近代日本の法整備に尽力した人物。

 

禁門の変、馬関戦争、功山寺挙兵と、長州藩が戦った数々の戦争に従軍。

戊辰戦争でも従軍し、西郷隆盛からは『あの小わっぱ、用兵の天才でごわす』と評されています。

 

明治新政府でも要職を歴任し、明治25年に逝去。

 

 

前原一誠(まえばら いっせい)

出典:Wikipediaより

 

1834年〜1876年(享年42)

高杉晋作、久坂玄瑞たちと共に松下村塾へ入塾。

前原氏の祖先は、戦国時代初期に山陰地方を制した尼子氏の『尼子十勇士』の一人と言われています。

 

高杉晋作の功山寺挙兵、戊辰戦争などにも従軍し、討幕運動で活躍。

 

明治新政府では、山縣有朋との意見の食い違いにより萩に下野。

萩の乱を起こしますが鎮圧され、乱の首謀者として処刑されました。

 

 

品川弥次郎(しながわ やじろう)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1843年〜1900年(享年57)

高杉晋作らと共に、イギリス公使館焼き討ちを強行、禁門の変にも参戦。

 

松陰先生からは『温厚正直で人情に厚く、抜きんでた能力は無いが、心が広く奥深い』と評されました。

 

桂小五郎と共に薩長同盟にも尽力。

明治新政府の要職も務めましたが、後に選挙に干渉しすぎた為、辞職を余儀なくされます。

 

明治33年、肺炎を患い逝去。

 

 

寺島忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう)

1843年〜1864年(享年21)

 

『長井雅楽』暗殺を計画しましたが、失敗。

後に禁門の変にも従軍しますが、久坂玄瑞とともに自害。

 

 

野村靖(のむら やすし)

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

 

1842年〜1909年(享年66)

兄は松下村塾四天王『入江九一』。

高杉晋作らと共に、イギリス公使館焼き討ちに参加。

 

明治新政府では要職を歴任。

明治42年、脳溢血により逝去。

 

 

正木退蔵(まさき たいぞう)

出典:Wikipediaより

 

1846年〜1896年(享年51)

松下村塾で学んだ教育者。

 

維新後はイギリスにも留学し、教育に専念。

 

晩年は、ハワイ王国総領事に就任。

 

明治29年に逝去。

 

 

松浦松洞(まつうら しょうどう)

1837年〜1862年(享年26)

魚商人の出身。

 

一度、渡米を試みましたが、松陰先生に『勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない』と反対され断念。

 

久坂玄瑞らと『長井雅楽』暗殺計画を企てるも、失敗し自刃。

 

 

有吉熊次郎(ありよし くまじろう)

1842年〜1864年(享年22)

高杉晋作らと共に、イギリス公使館焼き討ちに参加。

 

池田屋事件で新選組の襲撃を受けましたが、なんとか逃亡。

その惨状を、長州藩に伝えています。

 

禁門の変において、久坂玄瑞と共に自害。

 

 

時山直八(ときやま なおはち)

出典:Wikipediaより

 

1838年〜1868年(享年31)

高杉晋作の『奇兵隊』に参加し、各地で活躍。

 

戊辰戦争で長岡藩と交戦中、顔面に銃弾を受け討死。

 

 

増野徳民(ましの とくみん)

1841年〜1877年(享年37)

松下村塾で学んだ医者。

 

久坂玄瑞とともに『長井雅楽』暗殺計画を企てるも失敗。

その後は、医師として過ごし、明治10年に逝去。

 

 

玉木彦助(たまき ひこすけ)

1841年〜1865年(享年24)

松下村塾を最初に開いた『玉木文之進』の長男。

松陰先生とは従弟に当たり、その縁もあって元服時から松下村塾に入塾。

 

高杉晋作に従い、功山寺挙兵に参加するも、負傷し自害。

 

 

駒井政五郎(こまい まさごろう)

1841年〜1869年(享年25)

松下村塾で学び、戊辰戦争にも従軍。

 

後に奥羽、函館方面を転戦しますが、新選組の生き残り『土方歳三』率いる歩兵隊と激戦の末、銃弾を浴び討死。

 

 

渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)

1843年〜1939年(享年97)

勉強が嫌いだったらしく、塾生からの評判は著しくありませんでしたが、自説を曲げない頑固なところを松陰先生から評価されていた人物。

 

高杉晋作の『奇兵隊』の一員となり、禁門の変にも参戦。

 

後に船大工を志し、アメリカへ留学。

操船技術者として活躍しました。

 

松下村塾生で一番長命を保った人物で、その最後は97歳の大往生でした。

 

 

飯田俊徳(いいだ としのり)

1847年〜1923年(享年76)

日本の鉄道敷設に貢献した明治時代の官僚。

松下村塾のみならず、大村益次郎からも蘭学を学んだ人物。

高杉晋作の奇兵隊にも参加。

 

塾生の中では最年少ながら、その才能を松陰先生から称賛されています。

 

大正まで生き抜き、愛知にある息子の自宅で没しました。

 

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吉田松陰の意思を継いだ男たち

以上が、松下村塾の門下生一覧です。

 

こうやって見てみると20代で世を去った人物が多いことに気付きます。

 

松陰先生は塾生たちに『命の使いどころを誤るな、命にはかけ時というものがある』と説いていました。

 

その教えに従い、彼らは命をかけて新しい日本を作り上げようとしました。

 

 

幕末と言う、動乱の時代に常識は通じない。

狂った非常識こそ、新しい日本を創造することが出来る。

 

それだけ幕末と言う時代は、激しい時代だった。

 

そんな時代に松陰先生が、塾生たちに伝えた言葉で締めくくりたいと思います。

 

『諸君!狂いたまえ!!』

 

 

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