りんごを導入した殿様 松平春嶽!越前福井藩主の逸話と家系図

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拓麻呂です。

幕末の四賢侯

一人は薩摩藩主『島津斉彬(しまづ なりあきら)』

一人は土佐藩主『山内容堂 (やまうち ようどう)』

一人は宇和島藩主『伊達宗城(だて むねなり)』

そして、越前福井藩主『松平春嶽(まつだいら しゅんがく)』

春嶽は荒々しい幕末の中でも、越前福井藩主としての役目を全うし、そして目覚ましい活躍を見せた人物です。

その活躍は、まさに四賢侯の一角を成すに相応しいものでした。

今回は、そんな四賢侯 松平春嶽に迫りたいと思います。

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四賢侯 松平春嶽

出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より

春嶽の家系図

春嶽は本名を慶永(よしなが)と言いますが、『春嶽』という名がお気に入りだったようで、号(本名のほかに用いる名)として愛用していました。

なので以下、春嶽で統一します。

『松平』という姓からもお分かりいただけるように、春嶽の祖先は『徳川家康』です。

『松平』は家康が『徳川』を名乗る前の旧姓です。

春嶽が藩主と務めた福井藩は、家康の次男『結城秀康』を祖とします。

春嶽は八代将軍『徳川吉宗』の息子『宗武』を祖とする『田安徳川家』の出身ですが、福井藩主『斉善(なりさわ)』は早世し、跡継ぎがいなくなってしまったので養子にだされます。

ややっこしいので、簡単な系図にすると、このようになります。

春嶽 謹慎!!

紆余曲折あり、越前福井藩主となった春嶽。

全藩士の俸禄(現代でいうところの給料みたいなもの)を3年間半減、春嶽自身の出費も5年間削減といったように、藩の財政改革に取り組みます。

そして1853年、浦賀にペリー率いる黒船がやってきます。

黒船来航にともない、春嶽は薩摩の『島津斉彬』、水戸の『徳川斉昭』らと連携し攘夷(外国を追い払う思想)を唱えます。

やがて、幕府で将軍継嗣問題が発生すると、春嶽は『一橋慶喜』擁立派(一橋派)となります。

しかし、時の大老 井伊直弼は『徳川慶福』の擁立を画策(南紀派)。

一橋派と南紀派に分かれた将軍継嗣問題でしたが、結果として井伊直弼が主導する南紀派が勝利します。

春嶽は政争に敗れた形になります。

しかし、井伊直弼の専横はこれで終わりませんでした。

井伊は朝廷の許しを得ることなく、独断でアメリカとの通商を取り決めてしまいました。

『日米修好通商条約』です。

井伊の独断に抗議するため、春嶽は江戸城に怒鳴り込みに行きますが、無断で登城した罪に問われ謹慎となります。

このような経緯の中、一橋派の大弾圧『安政の大獄』が起こります。

安政の大獄 犠牲者一覧!なぜ吉田松陰や橋本左内は処刑されたのか?
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 1858年から1859年にかけて行われた、幕末の大弾圧『安政の大獄』 ...

この安政の大獄により、春嶽の腹心であった『橋本左内』は斬首。

橋本左内 出典:Wikipediaより

春嶽も謹慎の身となっており、政治的敗者となってしまったのです。

安政の大獄に関してはコチラの記事もご覧ください。

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春嶽 復活 !!

しかし、井伊直弼の専横は長くは続きませんでした。

井伊の政策に反発した水戸藩士たちの反撃が始まります。

『桜田門外の変』です。

この変により、井伊直弼は倒れ、幕府の政策も方向転換します。

その結果、約2年の時を経て、春嶽も幕政に復活することとなりました。

一方そのころ、京都では薩摩藩を主導していた『島津久光』が、幕政へ参画するため上洛。

先代の『斉彬』の頃から薩摩とは深い関係にあった春嶽。

久光は、『一橋慶喜』を将軍後見職(次期将軍のこと)に、そして春嶽を大老にすることを幕府へ要求。

この要求は実現し、春嶽は大老という、非常に権力のある役職に就任することとなりました。

戦国時代の再来!?松平春嶽の野望

大きな権力を手に入れた春嶽。

この後、春嶽は熊本藩から『横井小楠(よこい しょうなん)』という人物を政治顧問として招きます。

その小楠は、ある一つの計画を発表しました。

『挙藩上京計画』

この計画は、まさに戦国時代の再来とも言える過激なものでした。

春嶽を筆頭とし、福井藩の総力をあげ京都に進出し、日本を制圧。

朝廷でも幕府でもない、新しい政権を樹立し、新しい日本を創造する!

まさに戦国時代の織田信長や武田信玄でも再来したかのような上洛作戦。

しかし、反対派も多く連携が取れなかったため、実行直前で中止となりました。

この後、歴史は長州や薩摩、土佐、会津を中心に、明治維新へと急速に歩みを進めていきます。

その中で越前福井藩は、そこまで目立った活躍はせず、春嶽自身も表立った活躍は見せていません。

もし、この計画が実行に移されていたら、春嶽最大の見せ場となり、日本の歴史はまた違った形になっていたかもしれません。

リンゴを導入し、明治の名付け親になった春嶽

そんな春嶽ですが、いくつか面白いエピソードが残っています。

現代、僕たちが当たり前のように口にしている『りんご』

この、りんごを日本に導入したのが春嶽と言われています。

アメリカから苗木を入手し、江戸の福井藩邸の庭に植えたことで、日本にりんごが普及することとなりました。

また、『明治』という新しい元号は春嶽が名付けたともいわれています。

明治維新が成った後、新政府の要職を歴任した春嶽。

晩年は、政治の舞台から退き、自宅で余生を過ごしていたそうです。

明治24年、東京の自宅で永眠。

春嶽 辞世の句です。

『なき数に よしや入るとも 天翔り 御代もまもらむ すめ国のため』

幕末の四賢侯と言われた名君 春嶽の63年間は、自宅で静かに幕を下ろしました

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倒幕には賛同しなかった春嶽

大政奉還の際、春嶽は討幕には反対し続け、最後まで首を縦に振らなかったと言われています。

大政奉還には賛同するが、討幕には賛同しない。

この決意の裏には、春嶽のどんな想いがあったんだろう・・・?

そんなことを考える時があります。

一時は攘夷論者となり、やがては公武合体路線となった松平春嶽。

そんな春嶽は、徳川家康の血を引いています。

260年の長きにわたる太平の世を築いた神君 家康公。

分家ながらも、その末裔に列する春嶽にとっては、やっぱり徳川一門としても誇りがあったんじゃないのかな?

家康に対する畏敬の念があったんじゃないのかな?

それこそ、春嶽が討幕に賛同しなかった理由なんじゃないのかな?

徳川一門としてのプライド、そして想い。

世が討幕に傾く中、そんな信念を持ち続けた幕末を駆け抜けた名君こそが、松平春嶽という男なのかな。

僕は春嶽に、そんな印象を感じています。

春嶽に仕えた秀才『橋本左内』の記事はコチラ

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。


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