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拓麻呂です。
薩摩藩 島津久光ご一行が起こした大事件
『生麦事件』
この生麦事件は、イギリス人商人が馬に乗ったまま久光ご一行の行列を横切った為に発生した事件です。
↓生麦事件の記事はコチラ↓
行列を横切ったイギリス人に斬りかかり、国際問題にまで発展した大事件。
この時、イギリス人に斬りかかった人物の一人が
『奈良原 喜左衛門(ならはら きざえもん)』です。
あまり知られていない人物ですが、奈良原喜左衛門とはどのような人物だったのでしょうか?
どうやら、かなり強烈な攘夷思想を持った人物だったようなのです。
攘夷あるのみ!!奈良原喜左衛門
奈良原喜左衛門とは?
奈良原喜左衛門は薩摩藩士です。
年齢は、同じく薩摩藩士の西郷隆盛の3つ下、大久保利通の1つ下。
同世代です。
本名(忌み名)は清。
薩摩藩を揺るがしだ大事件『お由羅騒動』の影響で、父親の助左衛門が謹慎処分を受けています。
↓お湯羅騒動の記事はコチラ↓
イギリス人を斬り付けたことからも分かるように、剣術にも精通していました。
西郷さんや大久保さんが中心となって活動した『誠忠組』にも所属していました。
薩摩藩の悲劇の同士討ち『寺田屋騒動』で犠牲になった、有馬新七の説得にもあたっていたようです。
↓寺田屋騒動や有馬新七の記事はコチラ↓
スイカ売りに化けて攘夷決行??
そんな奈良原喜左衛門ですが、かなり強烈な攘夷思考を持っていました。
それを象徴するエピソードが残っています。
生麦事件を契機として勃発した『薩英戦争』
日本の一地方の薩摩藩と、世界に誇る超大国イギリスが激突した、前代未聞の争い。
先の生麦事件、そして薩英戦争の結果、薩摩藩はイギリスから多額の賠償金を要求されてしまいます。
この賠償金は結果的に幕府が支払いましたが、その最中、奈良原は『有村俊斎(海江田信義)』ら藩士数十人と、あるひとつの企てを決行します。
鹿児島湾に停泊していたイギリス艦隊。
その戦艦に乗り込むため、スイカ売りに扮して潜入を試みます。
奇襲をかけ、戦艦を奪おうとしたのです。
まさに攘夷決行!!
八艘の小舟に乗って、イギリス艦隊に近づく奈良原たち。
ですが・・・
怪しんだイギリス人に見破れ、この企てはあえなく失敗しました。
その後も、京都などで活躍し、禁門の変にも参戦しています。
そんな奈良原ですが、1865年 京都の薩摩藩邸で息を引き取りました。
34歳の若さでした。
決死の覚悟を持っていた幕末の志士たち
以上、奈良原喜左衛門のご紹介でした。
スイカ売りに化けて外国の戦艦を奪おうとしたエピソードからも伝わるように、この時代の攘夷派というのは、本当にすさまじい覚悟を持っています。
『吉田松陰』が黒船に密航しようとしたのは、良い例です。
現代の平和なの日本では、奈良原や松陰先生のような暴挙は許されません。
ですが奈良原たちが持っていた志、そして志を実行する為の覚悟。
様々な国際問題を抱えている現代の日本だからこそ、幕末の志士が見えた覚悟は、現代人も見習う必要があるんじゃないのかな。
明治維新150年を迎えた今、僕はそう考えています。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。