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拓麻呂です。
西郷隆盛と並び、維新三傑の一人に数えられる『大久保利通』には、『満寿子』という正妻がいましたが、第二の妻とも呼べる女性の存在がありました。
その女性の名は『杉浦勇(すぎうら ゆう)』
『おゆう』の名で知られています。
あまり知名度の無い『おゆう』ですが、一体どのような女性だったのでしょうか?
また大久保利通とは、どのような関係だったのでしょうか?
今回は、大久保が愛した芸妓『おゆう』に迫ってみたいと思います。
妖艶なる芸妓『おゆう』
おゆうの出自と大久保との出会い
おゆうは、京都の祇園 お茶屋一力亭というお店の9代目『杉浦治郎右衛門』という人物の娘とも言われていますが、ハッキリしたことは分かっていません。
京都祇園の芸妓(芸子)であったとされ、大久保利通が京都で活躍するようになってから出会っています。
大久保の活動拠点が京都に移り、宴の席などでお店に通う中で、おゆうとの仲を深めていったのかもしれません。
故郷 薩摩の地には『満寿子(ますこ)』という正妻がいたので、おゆうは妾のような存在であったと思われます。
おゆうと大久保の子供
大久保利通は、正妻『満寿子』との間に四男一女を授かっていますが、おゆうとの間にも四人の男児を授かっています。
なので大久保は計八男一女の子供がいたことになります。
おゆうが生んだ子供たちの名は・・
四男・大久保利夫
六男・大久保駿熊
七男・大久保七熊
八男・大久保利賢
です。
なお、四男・利夫と六男・駿熊は、おゆうより先に亡くなったと伝わっています。
大久保のおゆうへの想い
おゆうと大久保利通にまつわる、こんなエピソードが残っています。
戊辰戦争の発端となった『鳥羽・伏見の戦い』
この戦いで、大久保利通が属する薩摩軍に錦の御旗が翻ります。
錦の御旗とは、天皇から官軍と認められた証。
なので、薩摩軍と敵対していた旧幕府軍は朝敵となります。
つまり錦の御旗とは、薩摩軍にとっては旧幕府軍を倒す正当性の証となる、とても大事なものです。
この錦の御旗ですが、大久保利通たちが朝廷の許可を得て、複製したものだったそうです。
この、錦の御旗複製の生地を大久保利通が調達したのですが、その際に『おゆうの帯を作る』といって生地を買い占めていたそうです。
また、大久保の手紙にも、おゆうの名がたびたび登場しています。
大久保にとって、おゆうはとても大事な存在であったことが窺えます。
おゆうは、大正7年(西暦1918)年に亡くなりました。
大久保利通が、紀尾井坂の変で凶刃に倒れてから約40年後のことでした。
大久保利通が愛した女性
大久保利通と言うと、周囲の意見を聞かない堅物のようなイメージがあります。
そんな大久保が、明治維新に至る最中で愛した女性『おゆう』は、とっても魅力的な妖艶さを持っていたような印象を受けます。
史料が少なく、実像が掴みにくいおゆうですが、明治維新の立役者『大久保利通』を支えた女性として、とっても存在感のある女性だったのかなと思います。
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