清少納言と紫式部の年齢差は?枕草子や源氏物語を書いたのはいつ?

平安時代の女性たち

清少納言紫式部。枕草子と源氏物語を世に送り出した日本が誇る女性たちです。

2人は同時代の人物で似たような活躍をしており、よくライバル関係としても扱われています。

 

そんな清少納言と紫式部は、何年生まれでいつ亡くなったのか?あるいは2人の年齢差はどのくらいなのか?枕草子や源氏物語を書いたのは何歳の時なのか?など、清少納言と紫式部の年齢に関する様々な情報をご紹介します。

 

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清少納言と紫式部の年齢差と生没年

まずは清少納言と紫式部の生没年と年齢差をご紹介します。

清少納言と紫式部の生没年を明確には史料は存在しないため、当時の日記や交友関係などからの推測となります。そのため正確な年齢はわからないものの、清少納言の方が年上だったと見られています。

 

清少納言の生没年

清少納言の生没年は、おおむね康保3年966年~万寿二年1025年頃とされています。

 

まず生年に関しては様々な説があるにはあるのですが、彼女の交友関係や夫(初婚時)の年齢などから、おおよそ西暦960年代半ば頃の生まれではないかとされています。

夫の橘則光が康保2年(995年)生まれで、清少納言は1つ年下だったと言われているため、清少納言の生年は康保3年(966年)とされています。

 

没年に関しても明確な記録はありません。

長和6年(1017年)に清少納言の兄が殺害された事件があり、尼の姿をした清少納言がその場にいたとされる記録があります。これが清少納言に関する最後の記録なので、これ以降に亡くなったとするのが有力です。

兄弟の没年などから、おおよそ治安~万寿年間(1021年~1027年)頃に清少納言も亡くなったと推定されています。

 

生没年の推定に従うと、60歳に差し掛かるあたりで亡くなったとことになり、当時としてはかなり長生きでした。

 

紫式部の生没年

一方の紫式部の生没年ですが、様々な説が入り乱れているものの、おおよそ970年~978年あたりの生まれであろうと推測されています。

 

彼女の日記である紫式部日記に、歳をとって老眼が進行しつつあると思われる記述(老いぼれてはた目暗うて経読まず)があります。紫式部日記が書かれたのは寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)頃。

老眼が始まる年齢は早くても40歳くらいとのこと。なので紫式部日記の執筆時期から逆算すると、天禄元年(970年)の生まれだとちょうど40歳前後となるため、本記事では970年説を採用しています。

 

そして没年に関してもよくわかっていないのですが、当時の記録類に紫式部と思われる女性がたびたび登場しており、それらの記録から推測すると少なくとも寛仁3年(1019年)までは生きていたと見られています(もっと早くに亡くなったという説もあります)

最も長生きした説だと、長元4年(1031年)といった考えもあるのですが、手掛かりが無さ過ぎるので、本記事では寛仁3年(1019年)没としています。

 

天禄元年(970年)頃の生まれ、寛仁3年(1019年)頃に没と仮定すると、紫式部の享年はだたいた50歳前後だったことになります。

 

枕草子と源氏物語の執筆時期

続いて枕草子と源氏物語の執筆時期をご紹介します。合わせて宮仕えしていた期間も表にしてあります。なお、生没年と同様、執筆時期や宮仕えの期間にも諸説あります。

枕草子の執筆時期

枕草子は長徳2年(995年)頃~長保3年(1001)年頃に執筆されていたとされています。清少納言が30代前半から後半に差し掛かるあたりです。

 

枕草子がいつから書き始められたのかはよく分かっていませんが、書き始めた動機に関しては、清少納言自身が枕草子の後書き(跋文)で語っています。

 

その内容からすると宮仕えを始めた正暦4年(993年)以降に書き始めたのは間違いなく、さらに正暦5年(994年)頃からそれほど時を経ずして(藤原伊周という人物の当時の役職から推測)執筆用の紙を手に入れています。

そして、長徳元年~2年(995年~996年)頃には宮廷で読まれていたと見られています(源経房という人物が清少納言の家から枕草子を持ち出して広めた)

 

つまり正暦4年(994年)~長徳元年(995年)あたりに執筆を始めたと推測できます。

 

一方、執筆を終えた時期ですが、これもよくわかりません。

ですが、枕草子の執筆意図が『主君の定子の後宮の記録』でもあるので、定子が亡くなり清少納言が宮廷を去って間もない長保3年(1001年)頃には、ほぼ書き終えていたと見られています。

 

源氏物語の執筆時期

源氏物語は、長保3年(1001年)頃に書き始められ、寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)頃に書き終えたと見られています。紫式部が30代半ば~40歳になるあたりです。

 

いつ書き始めたのかに関して明確な記録は無く諸説あるのですが、執筆の動機は夫を亡くした悲しみを紛らわすためだったようです。

つまり、紫式部の夫『藤原宣孝』が亡くなったのが長保3年(1001年)なので、それから程なくして書き始めたと考えられています。紫式部が宮仕えを始めたのが寛弘2年(1005)頃と考えられているので、源氏物語は宮仕え前から書かれていたことになるのです。

紫式部が宮仕えをすることになった理由も、世間で源氏物語が評判だったからでした。

 

そして源氏物語を書き終えた時期ですが、『紫式部日記』によると寛弘5年(1008年)頃に宮廷で源氏物語の製本作業が行われています。なので寛弘5年(1008年)頃には、完成に近い状態になっていたと推測できます。

その後、さらに続きが執筆され(いわゆる宇治十帖の部分)、寛弘7年(1010年)頃には全編の執筆が完了したと見られています。

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清少納言と紫式部の年齢、枕草子と源氏物語の執筆時期まとめ

以上、清少納言と紫式部の年齢と、枕草子と源氏物語の執筆時期でした。

ここまでの情報をまとめます。

基本的には清少納言が少し年上で、執筆作業や宮仕えも先に経験してました。

よく比較される清少納言と紫式部。2人の共通点や違いを比較してわかりやすく図表にしてみたので、コチラもぜひご覧になってみたください。

清少納言と紫式部の違いと共通点を図表でわかりやすく解説します
『清少納言と紫式部の共通点や違いがよくわからない』という質問をよく耳にします。そこでこの記事では、清少納言と紫式部の共通点と相違点を、一目でわかる一覧にしてみました。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

【参考にした主な書籍】