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『小6の時、小野妹子は女だと思っていた』拓麻呂です。
『聖徳太子(しょうとくたいし)』
日本人なら誰でもしっている超有名人です。
飛鳥時代、彼の活躍は『冠位十二階』、『遣隋使派遣』、『憲法十七条』と枚挙に暇がありません。一昔前までは聖人のように称えられ、日本の歴史を代表するような人物でした。
しかし、昨今は名を『厩戸皇子(うまやとのみこ)』とされ、その活躍は彼一人のものではなく、『蘇我馬子(そがのうまこ)』などが主導していたのではないかと言われています。
確かに、聖徳太子不在説とも言えるこの議論は興味をそそりますし、非常に面白い説であると感じます。
しかし、ちょっと待ってほしいのです。
僕たちの暮らす、この『日本』という観点で歴史を俯瞰した時、本当に大切なことは聖徳太子が厩戸皇子だったとか、蘇我馬子が主導したとか、そんなことでは無いのではないでしょうか。
歴史と言うものが我々、現代人にどのような影響を与えうるものなのか?
今回は日本の歴史を『点』ではなく、『線』として見る事で初めて見えてくる聖徳太子の存在に迫ってみたいと思います。
~語り継がれる聖徳太子の偉業~
聖徳太子(厩戸皇子)とは
まずは、一昔前までの聖徳太子像を確認しておきます。
彼は、日本史上初の女帝である推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう)として様々な改革を推し進めていきました。なお摂政とは、天皇に代わって政治を行う人のことを言います。
余談ながら、同じような役どころとして関白がありますが、摂政と関白は微妙な違いがあります。関白は完全に天皇の政治代行ですが、聖徳太子が就任した摂政は、天皇が女性や子供の場合の代行となります。
では、聖徳太子が実施した改革として有名なものを以下に列挙してみます。
『冠位十二階』
この時代は有力な豪族が世襲で権力の中枢を担っていました。代表的な豪族として物部氏などがいます。つまり、愚かな人材でも世襲によって、政治の重要なポジションに付いてしまうのです。
このシステムにメスを入れたのが冠位十二階です。簡単に言うと能力のある者が出世できるようにした制度です。
『憲法十七条』
一般的に人としての心得を説いたものとされています。
和を以て尊しとなす(わをもってたっとしとなす)
第一条に記されたこの言葉は非常に有名で、現代の日本人の根底にもこの精神は根付いています。東日本大震災の時、お互いを思いやり食事の配給に整然と並ぶ日本人の姿は、正にこの精神が現れています。(天災に見舞われると略奪が横行する国も珍しくないのです)
『遣隋使の派遣』
個人的には、これが聖徳太子の真骨頂であると考えています。
『日出る所の天子、日没する所の天子にいたす。恙なきや・・・』
遣隋使『小野妹子』が携えた、あまりにも有名な書簡の冒頭部分です。
日本の隣に現れた強大な『隋』と言う国に対し、対等な立場で外交に臨もうとした聖徳太子の決意が込められた一文とされています。(聖徳太子が無知だったため、隋の強大さを知らなかった、なんて説もあります)
周辺諸国を震え上がらせた強大な隋に屈せぬ、日本の意思表示。日本代表として聖徳太子の意地と気迫が込められた渾身の書状と言えるでしょう。
聖徳太子の存在を認めてきた日本の歴史
このように、聖徳太子は日本が国として歩み始めた草創期において、斬新な改革を推し進めてきました。
しかし昨今は、この偉業が聖徳太子一人の実績ではないとか、そもそも聖徳太子はいなかったなどと言った説が広まっているのです。
ただし、ここで注意したいことがあります。この説は最近広まり始めたもので、日本の歴史は聖徳太子を実在の人物として認めてきたと言うことです。
例えば鎌倉時代初期に『慈円(じえん)』と言う僧が書いた『愚管抄(ぐかんしょう)』。
この愚管抄は歴史の流れを『道理』という観点から紐解いたもので、作者の慈円はこの中で興味深い発言をしています。要約すると以下のような内容となります。
・聖徳太子は憲法十七条や冠位十二階を定めた。太子の逝去後、世の中は衰退し民は貧しくなったと伝わっている
・仏の化身(聖徳太子)として現れたお方がなさったことが、悪例になるはずがない
この慈円の言葉は、聖徳太子の偉業が史実であることを前提とした言葉であり、聖徳太子は素晴らしい人物だったと言っているのです。
つまり、聖徳太子の存在と偉業は、長い日本の歴史の中で史実として認識され、その精神はこの日本に生きた人々の手本として、ずっと信じられてきたのです。
実際、僕が小学校や中学校の頃(20年くらい前)は、こんな説は無く、教科書でも聖徳太子の偉業を史実として扱っていました。
この日本の歴史、そして日本に生きた人々が、その存在を認め信じてきた聖徳太子の偉業は、長い年月を経て日本人の根底にある精神として根付いてきたのです。
その良い例が、東日本大震災時、整然と並ぶ日本人の姿に象徴されるのであり、『和を以て尊しとなす』精神そのものと言えるのです。
数々の偉業が聖徳太子一人のものでなくても、その存在が否定されようとも、日本の歴史がその存在と偉業を信じ育んできた結果が、現代日本人の国民性なのです。
これが聖徳太子を通じ、現代人が持つべき歴史観であると僕は考えています。
強い意志でまとまり始めた日本
最後にもう一つ、聖徳太子を通じ現代人が持つべき歴史観をお伝えしておきます。
それは、聖徳太子の時代に日本が中央集権的な『国家』として歩み始めたこと。
聖徳太子の時代に志した中央集権国家は、701年の『大宝律令』を以て完成を見ます。
つまり、明確な国として歩み始めた時期が聖徳太子の時代であり、この時代の人々が中央集権国家を志したということが大事なのです。
ちょっと雑な言い方ですが、この志は必ずしも聖徳太子である必要はなく、誰だって良いのです。
もう一度言います。
この時代に日本が大きな一歩を踏み出した、という事実が現代人にとっては重要なのです。
聖徳太子から見えてくる、現代人にとって大切な歴史観。
それは、聖徳太子は実在しない、あるいは彼一人の偉業ではないと言ったような『点』として聖徳太子を見るのではなく、聖徳太子から続くの日本の歴史を『線』として見る事で始めて見えてくる歴史観なのです。
~何だかんだで楽しい聖徳太子不在説~
ここまで書いておいてなんですが、僕は聖徳太子を巡る様々な解釈を何だかんだで楽しんでいます。
やっぱり、こういったミステリー的な内容は面白く、興味をそそられてしまいます。
僕は、この聖徳太子を巡る様々な意見を否定するつもりは全くありません。むしろ歴史に触れる方々がそれぞれの解釈を持ち、楽しんでいただきたいと思っています。
史実を紐解くのは歴史学者さんたちにお任せしておきましょう。これが僕のスタンスであり、歴史の楽しみ方です。
僕はただの歴史好きな一般人ですからね。
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。