源氏物語の作者「紫式部」
枕草子の作者「清少納言」
蜻蛉日記の作者「藤原道綱母」
更級日記の作者「菅原孝標女」
それぞれ素晴らしい文学作品を後世に残した人物たちですが、この4人の家系図を紐解いていくと、意外な繋がりがあったことをご存知でしょうか?
この記事では、紫式部、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女の意外な接点をお伝えしていきます。
4人の系図
まずは4人の簡易的な系図をご覧ください。
上記の系図を元に解説していきます。
藤原道綱母と菅原孝標女
まず最初に、藤原道綱母と菅原孝標女の関係性についてお伝えします。
系図的にも、この2人の関係が最もわかりやすいのではないでしょうか?
結論から言うと、藤原道綱母と菅原孝標女は、おばさんと姪っ子の関係にあたります。
藤原道綱母の妹(異母妹)が、菅原孝標に嫁いでいます。菅原孝標はその名の通り、菅原孝標女の父親です。
つまり、菅原孝標女から見て藤原道綱母は叔母にあたり、藤原道綱母から見て菅原孝標女は姪にあたることになります。
菅原孝標女から見て藤原道綱母は叔母。
藤原道綱母と菅原孝標女の関係については、コチラの記事でも詳しく解説していますので、是非ご覧になってみてください。

藤原道綱母と清少納言
続いて藤原道綱母と清少納言の関係についてです。
まず、藤原道綱母と清少納言に直接的な血縁関係はありません。(ずっとずっと遡っていけば繋がってる可能性はありますが、ここでは考慮していません)
ですが系図の通り、「清少納言の姉妹(姉とされている)」と「藤原道綱母の兄(藤原理能)」が結婚しているので、清少納言の家と藤原道綱母の家は親戚関係なのです。
ちなみに、兄と姉が結婚しているので清少納言と藤原道綱母は同世代かと思われるかもしれませんが、実際は親子並みに年齢が離れています。
諸説あるものの、藤原道綱母の生年は承平6年頃(936年頃)、一方の清少納言の生年は康保3年頃(966年頃)と考えられているので、実は30歳くらいの開きがあるのです。
なお、枕草子内で清少納言が藤原道綱母について触れている興味深い箇所があるのですが、その辺は以下の記事で詳しくお伝えしていますので、ぜひご覧になってみてください。

藤原道綱母&菅原孝標女と紫式部
続いて、藤原道綱母&菅原孝標女と紫式部の関係性についてです。
系図を見てみると、藤原道綱母の姉妹の一人(妹?)が藤原為雅という人物に嫁いでいます。
その藤原為雅の兄弟である藤原為信の孫が紫式部です。
ちょっとややこしいですが、「藤原道綱母と紫式部は、遠いながらも一応血の繋がりがある」ということになります。
ということは、藤原道綱母の姪っ子にあたる菅原孝標女とも、遠い繋がりがあるわけですね。
紫式部と清少納言
最後に紫式部と清少納言です。
知名度で言えばダントツの2人ですが、この二人に血縁関係はありませんし、親戚筋でもありません。
紫式部と清少納言と言えば、「仲が悪かった」とか「ライバル関係」だったと言われることも多いです。
紫式部と清少納言の本当の関係性とはどのようなものだったのでしょうか?
一般的に言われているような乱原関係だったのかどうか、真実を解説した記事もありますのでぜひご覧になってみてください。

紫式部、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女の関係まとめ
以上、紫式部、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女の関係でした。
まとめると以下のようになります。
【藤原道綱母と清少納言】→血の繋がりはないが兄と姉が結婚しているので親戚ではある
【藤原道綱母&菅原孝標女と紫式部】→かなり遠い親戚関係
【紫式部と清少納言】→血縁、親戚関係ともに無し
実際に家系図にしてみると、意外な繋がりが見えてきて面白いものですね。
今回とりあげた4人も含め、平安時代中期の女性たちの記事を多数執筆していますので、ぜひご覧になってみてください。
