『伊勢大輔(いせのたいふ)』
という人物をご存じでしょうか?字面だけを見ると男性かと思ってしまいますが、実は女性です。
紫式部や清少納言とほぼ同時代を生きた女性 伊勢大輔。
この記事では、紫式部とも関りが深い伊勢大輔についての逸話やプロフィールなどをご紹介します。
伊勢大輔のプロフィール
伊勢大輔は、永祚元年(989年)頃の生まれとされているので、清少納言や紫式部などと比べ、だいたい20歳前後年下だったことになります。親子だったとしても全然珍しくない年齢差ですね。
伊勢大輔は、一条天皇の妻「彰子(しょうし)」の女房として働いていました。彰子には紫式部や和泉式部も仕えていましたので、紫式部&和泉式部と伊勢大輔は職場の同僚ということになります。伊勢大輔の年齢的からすると、紫式部や和泉式部は大先輩です。
また、伊勢大輔は晩年に第72代白河天皇の養育にあたっています。白河天皇と言えば、後に白川法皇(上皇)として、院政を敷いたことでも有名な天皇ですね。
伊勢大輔の没年はハッキリしていませんが、康平3年(1060年)以降ではないかと言われています。
紫式部とのエピソードと百人一首
伊勢大輔は紫式部との間にあるエピソードを残しており、その逸話が百人一首に選出された和歌にも影響しています。
そのエピソードとは・・・。
ある日、一条天皇の元に奈良から八重桜が献上され、伊勢大輔はその桜を受け取る役目を任されました。
なお、本来この役目は紫式部に任されていたのですが、当時新参者だった伊勢大輔に花を持たせるため、紫式部が大役を譲ったのです。
伊勢大輔が御前に伺候している時、傍らにいた藤原道長から、その桜で和歌を詠めと命ぜられます。伊勢大輔は、紫式部からの期待に応えるかのように、とても素晴らしい和歌を詠みあげました。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(いにしえの ならのみやこの やえざくら きょうここのえに においぬるかな)
【意味】古都奈良で咲いていた八重桜が、今日新しい都 京都に献上され、宮中で美しく咲き誇っています。
この和歌を受け、その場にいた彰子たちは大絶賛。伊勢大輔は新参ながら、その実力を認められたのでした。
このエピソードは、新参者であった伊勢大輔の器量を推し量る為の試練であり、その試練を見事に乗り越えた伊勢大輔の才女っぷりを示すエピソードとして知られています。そして、この時に読まれた和歌が、百人一首の六一番歌として選出されました。
この和歌が詠まれた直後、藤原道長は感嘆、周囲からもどよめきが起こったと言われています。
藤原道長の思惑?と紫式部の機転?
このような形で華々しい宮廷デビューを飾った伊勢大輔でしたが、その影には紫式部の機転がありました。
紫式部が桜の受け取り役を、伊勢大輔に譲ったからこそ、彼女は絶賛されることになったのです。この時の和歌が無ければ、伊勢大輔は百人一首に選ばれなかったかもしれません。
この時に役目を譲ったのが紫式部。紫式部本人の意志で役目を譲ったのかは今となってはわかりませんが、なにしろ伊勢大輔に試練を与えたことには変わりません。
どちらにしても、伊勢大輔の人生を左右する大きな出来事であったことは間違いないでしょう。
伊勢の大輔まとめ
以上、伊勢大輔についてでした。
いかんせん情報の少ない人物なので人物像が掴みにくいですが、桜の逸話や白河天皇の養育を任されていることなどからも、もこの時代を象徴する才女であったことは間違いありません。
清少納言や紫式部を始め、個性的な女性が集まっていたこの時代は、戦国時代や幕末に負けない面白さがあると、個人的には考えています。
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