家系図付き!清少納言の父親 清原元輔とはどんな人?百人一首の和歌の意味は?

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人物のエピソード

清原元輔は、枕草子の作者 清少納言の父親です。

娘の清少納言はとても有名ですが、父の清原元輔はあまり知名度が高くありません。

 

ですが、清原元輔は百人一首に和歌が選ばれるほどの和歌の名人であり、和歌の達人を集めた「三十六歌仙」に名を連ねるほどの人物だったのです。

 

この記事では、そんな清原元輔のエピソードや百人一首に選ばれている和歌など、枕草子で語られる人物像など、清原元輔に関する情報を家系図を交えながらお伝えしていきます。

 

本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。

 

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清原元輔と清少納言の家系図

まずは、清原元輔と清少納言の関係を示した系図をご覧ください。

清原元輔は延喜8年(908年) の生まれとされ、永祚2年(990年)に亡くなりました。つまり数え年で83歳まで生きたことになり、当時としてはかなりの長寿だったのです。

なお、清少納言は清原元輔の末っ子で、康保3年頃(966年頃)の生まれと見られています。つまり、清少納言は清原元輔が50代後半の時に生まれたことになり、祖父と孫なみに年齢が離れていました。

 

66歳頃には周防守(すおうのかみ)に任ぜられて、周防国(すおうのくに/現在の山口県南東部)へ赴いています(現在の感覚で言うと、山口県知事に任命されて京都から山口県に移住した感じ)。この時に清少納言も一緒に周防へ移住していたようで、周防へ向かう道中で船旅を経験したからこそ書ける内容が、枕草子(290段うちとくまじきもの)に記されています。

 

さらに79歳の時には肥後守(ひごのかみ)に任ぜられ、今度は肥後国(ひごのくに/現在の熊本県)へ移住しました。今より寿命の短かった当時の79歳と言ったら、現在の90歳や100歳くらいの感覚だと思われるので、かなりの高齢で熊本県知事になったようなものです。

そして、永祚2年(990年)肥後国で83年の生涯を閉じたのでした。

 

清原元輔のエピソード

清原元輔(Wikipediaより)

清原元輔の人物像を示す興味深いエピソードが「今昔物語集」という説話集に集録されているので、現代の言葉に置き換え、要約してご紹介します。

加茂祭で馬に乗っていた元輔は落馬してしまいました。
その時、頭にかぶっていた冠が脱げて、元輔の光り輝く禿げ頭が露わになります。

当時、人前で頭をさらけ出すと言うのは、現代で言う所の人前でパンツを脱ぐような恥ずかしい行為とされていました。

祭りの見物客が唖然とする中、元輔は冠をかぶり直しもせず、冠がツルっと脱げてしまった理屈を、長々と周囲に説明し始めました。

すると周囲は大爆笑に包まれたのです。

 

このように、清原元輔にはひょうきんな一面があったようです。この性格は娘の清少納言も少なからず受け継いでいたようで、枕草子から伝わってくる清少納言の明るく朗らかな印象は、父親の影響を受けたものだったのかもしれませんね。

 

枕草子で語られる清原元輔

娘の清少納言が書いた枕草子に、清原元輔は名前のみ少しだけ登場します。清原元輔が登場するのは95段「五月の御精進のほど」という章段です。

この章段で、清少納言の主にあたる定子(ていし)」が、清少納言に向けて和歌を詠むのですが、その和歌の中に清原元輔の名前が登場します。

定子
定子

元輔が 後(のち)と言はるる 君しもや 今宵の歌に はづれてはをる

清原元輔の人となりを知るため、この和歌が詠まれた背景を簡単に解説しておきます。

 

和歌の名人として知られた父 元輔の名を傷つけたくない清少納言は和歌に対してプレッシャーを感じていたことが枕草子に書かれています。なので清少納言は、とある歌会で和歌を詠むことを突っぱねていました。そのような場面で、定子が清少納言に贈った和歌が「元輔が 後(のち)と言はるる 君しもや 今宵の歌に はづれてはをる」なのです。定子の和歌はこのような意味になります。

和歌の名人 清原元輔の娘であるあなた(清少納言)が、今宵の歌会に不参加で良いのですか?あなたも皆と一緒に和歌をお詠みなさい

 

清原元輔の歌人としての実力は、当時から知れ渡っていたことがわかりますね。

 

百人一首に選出された清原元輔の和歌

百人一首の清原元輔(Wikipediaより)

清原元輔は、優れた歌人を集めた「三十六歌仙」の一人であり、万葉集の解読や後撰和歌集の編纂を行った「梨壺の五人」にも名を連ねる文化人でした。そんな清原元輔の和歌の中から、百人一首に選ばれた作品をご紹介します。

契きな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

 

この和歌は、女性にふられた男性の心境を詠んだものです。愛を誓い合ったにも関わらず心変わりしてしまった女性への恨みを、清原元輔が代作したとされています。意味を要約すると以下のようになります。

約束したよね・・・僕も君も涙で袖を濡らし、あの末の松山を波が越えることがないように、僕たちの愛もずっと変わることがないと・・・それなのに君は・・・

 

なお「末の松山」とは、宮城県の海岸沿いにある景勝地で「どんな大きな波でも超えることができない」と言われた小山です。そんな山を越えて心変わりしてしまった女性を責めた和歌なんですね。

 

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清原元輔まとめ

以上、清原元輔についてでした。

 

あの清少納言がプレッシャーを感じるほどの歌人だった清原元輔。

現在、清原元輔の邸宅があったとされる場所には「泉涌寺」というお寺があり、清少納言が晩年を過ごした場所という伝承があります。

泉涌寺にある清少納言の歌碑(撮影:筆者)

清少納言とは祖父と孫ほども年の離れた親子でしたが、清少納言は父への尊敬の念をずっと持ち続けていたのでしょう。

ひょうきんな一面があり、清少納言の人格形成にも影響を与えた和歌の達人「清原元輔」は、娘の死清少納言の負けず劣らず魅力的な人物なのではないでしょうか。

 

【参考にした主な書籍】