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『清少納言に恋した男』拓麻呂でございます。
平安時代に清少納言が書き残した枕草子。
以前、枕草子に隠された本質について記事にしたことがあります。
この記事では、枕草子が定子に捧げた悲しい作品であることをお伝えしましたが、ひとつ疑問が残ります。
その疑問とは、
『定子の出産に関する記述が一切無い事』
定子の没落していく様子が綴られていないのは、枕草子執筆の意図からも理解できます。
しかし、出産という未来ある喜ばしい出来事が一切記録されていないとは、一体どういうことなのでしょうか?
これには、当時の時代背景、つまり御堂関白 藤原道長の影響が大きかったと考えられます。
今回は、枕草子の本質を補完する形で、当時の時代背景から読み取れる枕草子の真実に迫ってみたいと思います。
枕草子執筆時の時代背景
没落していく中での出産
絶頂を極めた定子の後宮サロン。清少納言をはじめ知的な女房たちが集まった定子の周辺は、いつも笑顔が溢れる華やかな空間でした。
しかし、父の逝去、兄弟の左遷、実家の焼亡、そして藤原道長の娘『藤原彰子』の入内(天皇に嫁ぐこと)によって、定子は後ろ盾や宮中での居場所を失っていきました。
この彰子入内には、権力を我が物としたい『藤原道長』の意向が大きく働いていたことに疑いの余地はありません。
これにより、当時の天皇『一条天皇』は、皇后定子、中宮彰子といった二后並立という異様な状況に直面します。
このような状況になった一条天皇ですが、彰子入内後も定子を愛し続けました。その結果、定子は皇子を授かることとなります。
その皇子を『敦康親皇(あつやすしんのう)』と言います。
枕草子に書かれていない敦康親皇出産
敦康親皇は定子が没落していく最中に授かった皇子です。
失意の中で授かった子宝。定子の栄華を描く枕草子には、当然記録されていて良いはずですが、何故か一切記述がありません。
枕草子には、定子が出産の為に『生昌(なりまさ)の家』に移る時の出来事(八段『大進生昌が家に』)が記されていることから、清少納言が定子出産の事実を知らなかったとは思えません。
では、一体なぜ清少納言は、この事実を枕草子に記さなかったのでしょうか?
その理由こそが、当時絶大な権力を誇示していた藤原道長の存在なのです。
定子の出産を無視する藤原道長
なお、定子が敦康親皇を出産した日と、藤原道長の娘『彰子』の入内が決定した日は同じ日でした。
藤原道長の日記『御堂関白記』、この日記には彰子入内に関する記述が詳細に記されています。しかし定子の出産に関する記述は一切見当たりません。
定子の出産、彰子の入内。ともにめでたい出来事ですが、藤原道長は彰子入内のみを称賛し、定子出産に関しては、無視を決め込んでいるのです。
これには藤原道長の意図的な政略が見え隠れしています。
つまり、自分の娘である彰子を宮廷の中心に据え、天皇の正当な后としての立場を確立する為、同じような立場にあった定子を意図的に無視し、その居場所を奪い去ろうとしていたのです。
時の権力者 藤原道長に遠ざけられた定子の立場は、正に風前の灯でした。
権力には抵抗できなかった清少納言
このように当時の宮廷には、権力者である藤原道長の意向が大きく働いていたことが想像できます。
この絶大な権力 藤原道場が意図する所は、彰子後宮の栄光。その妨げになるのが定子の存在。
そして、藤原道長に遠ざけられた定子に誠心誠意お仕えしていた清少納言。
枕草子には、定子との華やかで笑顔溢れる明るい出来事が、これでもかというほど綴られています。
きっと彼女は、定子の出産も枕草子に書き残したかったに違いありません。
しかし、そこに立ちはだかった時の権力者 藤原道長。
枕草子に自身の感性を好き放題書き綴っていた清少納言も、権力という圧力の前には、その意向を無視することが出来なかったのではないでしょうか。
彼女は女房という天皇や貴族に近しい立場にありました。つまり政治の中枢に近い立場にあったが故に、時代の流れに抗う事ができなかったのです。
定子の出産という最も明るい出来事を、枕草子に書くことが出来なかった清少納言は本当に悔しかったに違いありません。
しかし枕草子には、その悔しさ、悲しさを吹き飛ばすように、最高に華やかで明るい定子後宮が描かれているのです。
歴史的には敗者の清少納言
清少納言は歴史的に勝者か敗者かと言われれば、残念ながら敗者と言えるでしょう。
藤原道隆の娘 定子、そして定子に仕えた清少納言。
一方、
藤原道長の娘 彰子、そして彰子に仕えたのが紫式部。
現在でも、道長の名は知っていても道隆は知らない方がほとんどではないでしょうか。
道隆が早世したことによって道長が台頭し、定子を含む道隆一族(中関白家)は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。
歴史的敗者となった道隆一族の定子に仕えた清少納言は、定子没後に宮廷出仕を辞め、後に出家したと言われています。つまり、歴史的に見れば、清少納言も敗者の側に属することになります。
しかし、彼女が最も輝いた数年間、それが定子に仕えた女房時代。その輝きを現代に伝えてくれる作品が枕草子なのです。
歴史的には敗者であっても、日本史上最も華やかな後宮サロンを出現させた清少納言と藤原定子。彼女たちの後宮サロンは日本史の優雅なワンシーンとして、今なお輝き続けているのです。
もっと枕草子の世界を覗いてみたい方は、こちらからお好みの記事をご覧ください。
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。