紫式部の孫と清少納言の孫は恋人だった!子孫の意外な関係をわかりやすく解説

※当ブログではアフィリエイト広告を利用しています。

平安時代の女性たち

よくライバル関係にあったと言われている紫式部と清少納言。

 

清少納言紫式部は面識が無かったと言われていますが、実は子供や孫になってくると、意外と絡みがあったのをご存知でしょうか?

とくに孫の代ともなると、恋人同士だったことがわかるちょっとした逸話も残っているのです。

 

そこでこの記事では、清少納言と紫式部の子供と孫のご子孫の接点をご紹介したいと思います。

 

本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。

【音声版】紫式部の孫と清少納言の孫は恋人だった!

清少納言&紫式部の子供と孫の意外な接点 | 拓まろ 【歴史ブロガー】「お気軽エンタメ王朝文学」/ Voicy - 音声プラットフォーム
今回は、清少納言と紫式部の子供や孫の代のお話です。清少納言と紫式部は面識が無かった可能性が高いのですが、実は子供や孫になってくると、意外と絡みがあった可能性が高いのです。とくに孫の代では、ちょっとした逸話も残っています。そこで、今回は清少…

 

スポンサーリンク

紫式部の娘「大弐三位」と清少納言の娘「小馬命婦」

まずは簡単に、紫式部の娘と清少納言の娘を確認していきます。

・紫式部と藤原宣孝の子供→大弐三位
・清少納言と藤原棟世の子供→小馬命婦

 

このように、紫式部には大弐三位(だいにのさんみ)」という娘がおり、清少納言には小馬命婦(こまのみょうぶ)」という娘がいます。

 

なお、大弐三位は本名を「藤原賢子(かたいこ/けんし)」と言い、「越後弁(えちごのべん)」という名でも知られています。

一方、小馬命婦の本名は伝わっていませんが、少し前の時代に同名の人物がいるため区別するために、清少納言の娘の方を「上東門院小馬命婦(じょうとうもんいん こまのみょうぶ)」と呼んだりします。

 

この大弐三位と小馬命婦、実はともに中宮(天皇のお后様)である彰子(しょうし/あきこ)」にお仕えする女房でした。

 

つまり、現代で言うところの職場の同僚だったことになります。

 

母親同士はライバル関係にあったと言われていますが、娘たちは意外と近い間柄にあったんですね。

 

なお、大弐三位と小馬命婦に関しては、それぞれ記事にもしていますので、両者をより深く知りたい方は是非ご覧になってみてください。

大弐三位の記事

紫式部の娘でキラキラ女子『大弐三位(藤原賢子)』の和歌や逸話
紫式部の娘『大弐三位(だいにのさんみ)』。母が源氏物語の作者としてあまりにも有名すぎるので陰に隠れがちですが、娘である大弐三位も実はかなりの才女として知られています。この記事では、そんな大弐三位の人物像などを見て行きたいと思います。

小馬命婦に関する記事

清少納言の子供たち!娘の小馬命婦、息子の橘則長を簡単解説
枕草子の作者 清少納言には、2人の子供がいました。一人は橘則長。一人は小馬命婦(こまのみょうぶ)。母の清少納言がビッグネームすぎるので、影の薄い子供たちですが、彼らはどんな人物だったのでしょうか?

 

小馬命婦は紫式部の同僚でもあった?

ちなみに、小馬命婦は大弐三位だけではなく、その母親である紫式部とも同僚だった可能性があります。

 

紫式部日記の九月十六日の部分に「馬(むま)」なる名前が確認でき、さらに九月十九日の部分に「こまのおもと」なる女房が登場しています。

 

紫式部
紫式部

こまのおもとといふ人の恥見侍りし夜なり

 

これらに記述が元で、「こまのおもと」や「馬」なる人物が小馬命婦のことであり、紫式部と小馬命婦が同時期に宮仕えをしていたのではないかという説があるのですが、真偽のほどは定かではありません。

 

とは言え、紫式部は30代半ばあたりで宮仕えを始めているので、娘世代の人物と同僚だった可能性は十分にあったのではないでしょうか。

 

恋人関係だった紫式部の孫と清少納言の孫

つづいて、紫式部&清少納言の孫たちの関係を見て行きましょう。

たいへん興味深いことに、この孫同士が恋仲にあったのです。

 

まず小馬命婦の娘、つまり清少納言の孫ですが、この人物の名前は伝わっていませんが、母(小馬命婦)や祖母(清少納言)と同じく、宮仕えをしていたようです。

なので、清少納言の子孫たちは親子三代に渡って宮仕えをしていたんですね。

 

そんな清少納言の孫が、とある男性を恋仲になるのですが、その男性が「高階為家」なる人物。

この高階為家が実は大弐三位の息子になります。

つまり、高階為家は紫式部の孫にあたるわけですね。

 

しかし、清少納言の孫娘は高階為家に捨てられてしまうという悲しい結末となります。

 

ところが高階為家は清少納言の娘とよりを戻したかったのか、しれっと「会おう」と言って葵をプレゼントしてくるという出来事が起こりました。

そんな軽薄な態度をとった高階為家に対し、小馬命婦がやり込めた和歌が残っているのです。

 

小馬命婦
小馬命婦

その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき

 

意訳すると以下のような意味になります。

小馬命婦
小馬命婦

それは葵ともわからないほど枯れてしまっているのに、どう言ってみあれの今日は掛けたらよいのですか。あなたは私から離れていってしまったのに、どうして今日は逢う日だというのですか。

※現代語訳は「岩波文庫 後拾遺和歌集」より引用。

 

なお、「葵」は加茂社を象徴する草で祭りに用いられ「逢ふ日」との掛詞になっています。

さらに、「みあれ」とは賀茂祭の前に行われる神事を指します。

 

このように小馬命婦は高階為家をピシャリと言いこめたのです。

 

本人たちよりも娘や孫の方が関係が深かった

以上、紫式部と清少納言の孫世代の関係をご紹介しました。

 

紫式部と清少納言はライバルだったとよく言われています。

ですが、娘の大弐三位と小馬命婦はともの彰子に仕える女房で、いわば職場の同僚でした。

なので、少なからず絡みはあったでしょう。

さらに妄想をしてみれば、もしかしたら仲の良い友人関係に発展していた可能性だってあります。

 

そして、何と言っても孫の世代になると、恋仲にまで発展していました。

結果的には紫式部の孫である高階為家が、清少納言の孫を捨てるという残念なことになっています。

ところが、そんな高階為家に対し小馬命婦が見事にやり込めるという、非常に興味深い結果になっています。

 

因縁浅からぬ紫式部と清少納言ですが、娘の世代、そして孫の世代にまで、その関係は継続していたのです。

そう思うと、この二人には何か運命めいたものすら感じますね。

 

そんな紫式部と清少納言ですが、実は言うほどライバルでもなかったのをご存知でしょうか?

紫式部と清少納言の本当の関係性を知りたい方は、ぜひご覧になってみてください。

清少納言と紫式部の本当の関係を図で解説!実はライバルじゃなかった?

清少納言と紫式部の本当の関係を図で解説!実はライバルじゃなかった?
...

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

【参考にした主な書籍】