清少納言の髪はかつらだった?平安時代の「かもじ」とは?枕草子の記述をわかりやすく解説

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平安時代の女性たち

長い黒髪が美しさの条件とされていた平安時代。

とは言え、当時の貴族女性が全員美しい黒髪のロングヘアーだったかというと、ちょっと違ったようです。

 

その代表格が、枕草子の作者である清少納言

 

実は、枕草子の中で清少納言が自身の髪について言及している部分が、何カ所かあります。

それらの記述から想像すると、清少納言の髪はおそらく茶色っぽくて縮れ気味の癖毛だったと思われます。

 

そんな清少納言が、髪を美しく見せるために装着していたものが「かもじ」と言われる付け毛、あるいはカツラのようなものでした。

 

この記事では、清少納言の意外な髪形や、「かもじ」を装着していたとわかる枕草子の記述を見ご紹介します。

 

※枕草子の章段数は底本によって違うため、本記事では「角川ソフィア文庫 新版枕草子」に準拠しています。

 

本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。

【音声版】清少納言の髪はかつらだった?平安時代の「かもじ」とは?

清少納言はうねうね茶髪だった【枕草子の記述より】 | 拓まろ 【1日10000PV達成の歴史ブロガー】「お気軽エンタメ王朝文学」/ Voicy - 音声プラットフォーム
今回は、清少納言の髪質についてお話しします。長い黒髪が美しさの条件とされていた当時において、清少納言はちょっと意外な髪質だったようです。枕草子には、清少納言が自身の髪の毛について言及している部分があり、非常に興味深い記述となっていますので…

 

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清少納言が付けていた「かもじ」

まずは、枕草子の二六三段「関白殿、二月二十一日に」という章段の、該当箇所を見てみましょう。

 

清少納言が主の中宮定子に付き従って、積善寺という寺にやってきたときのことです。

 

牛車に乗ってやってきて、いざ牛車から降りる時に、こんなことが書かれています。

清少納言
清少納言

手を加えてくっつけた髪も、唐衣の中でふくらんで変な感じになっているでしょう。髪色の黒と赤が見分けられてしまいそうなのがとても情けない。

 

おおよそ、以上のようなことが書かれています。

清少納言の言う「くっつけた髪」というのが、いわゆる「かもじ」と言われる付け毛のことです。

平安時代には、長い黒髪をサポートするために使用されていました。

 

この記述から、少なくともこの時の清少納言は「かもじ」を付けなければならないような、サポートが必要な髪質だったということがわかりますね。

 

そして、

清少納言
清少納言

髪色の黒と赤が見分けられてしまう

というのは、黒は「かもじ」のことを言っていて、一方の赤は清少納言の地毛のことを言っていると思われます。

 

つまり、この記述を要約すると、

清少納言
清少納言

かもじと地毛の色が違う・・・

と言っているわけで、清少納言の地毛は赤みがかっていたことがわかります。

 

これらの記述から、清少納言の髪の毛は真っ黒ではなく、おそらく茶色っぽい色をしていたのではないかと思われるのです。

 

髪の毛に自信が無い清少納言

つづいて、清少納言が宮仕えを始めた初日のことを回想した一七九段「宮にはじめて参りたるころ」にも、興味深い記述があります。

 

宮にはじめて参りたるころは、清少納言が初めて定子様と対面した時のこと書かれているわりと有名な章段です。

 

初出仕の日の夜、定子の前に参上した際、自らの髪の毛が明かりに照らされてしまい、

清少納言
清少納言

髪の毛の筋がはっきり見えてしまって恥ずかしい

と、当時のことを回想しています。

このように回想していることからも、清少納言はストレートヘアーではなかったと思われます。

 

 

また、七九段「返る年の二月廿夜よ日」という章段にも、自身の髪の毛に言及している記述が確認できます。

 

藤原斉信という男性貴族と御簾みす越しでやりとりしている中で、

清少納言
清少納言

御簾の内側にうら若い女性などが、見事な黒髪が長くこぼれかかって、受け答えしているなら、少しは見所のある構図になっただろうに、実際にはとうに盛りの過ぎたおばさんがいて、髪の毛も自分の物ではなく、ところどころ縮れてしまっている

と、いうようなことを言っています。

 

この中で、

清少納言
清少納言

髪の毛も自分の物ではなく、ところどころ縮れてしまっている

と言っていることからもわかる通り、清少納言はこの時も「かもじ」を付けていたのでしょう。

 

これらの記述から、清少納言の髪の毛は茶色っぽくて、うねっていたのではないかと考えられ、自分の髪の毛に自信が無かったのではなかろうかと思われるのです。

ゆえに「かもじ」を装着して、少しでも黒くて美しい髪の毛に見せようと努力していたんですね。

 

ちなみに、清少納言が自分のことを「盛りを過ぎたおばさん」と言っていますが、当時の清少納言は30代前半くらいです。

現代の感覚だと言うほどおばさんでもないと思いますが、当時は寿命が短かったこともあり、当時の30代は現代の40~50代くらいの感覚だったと思われます。

 

この感覚の違いにより、清少納言は自分のことを「おばさん」と言っているわけですね。

 

清少納言の髪型と「かもじ」まとめ

以上、清少納言の髪の毛について、枕草子の記述を元にご紹介してみました。

 

平安時代の貴族女性というと、なんとなく黒くて長いストレートヘアーをイメージしてしまいますが、少なくとも地毛に関しては、みんながみんが長い黒髪だったわけではなかったということです。

 

よくよく考えてみれば、現代でもいろいろな髪質の人がいますし、理想の髪型や髪質を実現するために努力したり投資したりするのは、今も昔も変わらないのかなと思います。

 

現代の同じく、髪の毛に対するいろいろな苦労もあったということですね。

そう考えると、1000年前の人がとても身近に思えてきませんか?

 

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