平安な時代を代表する服装である「十二単(じゅうにひとえ)」。
女房装束とも呼ばれる十二単がどのくらいの重さだったかをご存知でしょうか?
十二単がどれだけ重かったのか?
実は源氏物語や枕草子にも、十二単がどれほど大掛かりなものだったのかがわかる記述があり、それらを読むと、もはや軽い筋トレなんじゃないかと感じるほどです。
今回は、そんな十二単の重量についてご紹介します。
本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。
十二単の重さとは?
ではさっそく十二単の重さをお伝えします。
現代の十二単は20kgからそれ以上の重さがあるようですが、奈良県の正倉院にある絹織物は現代の物より軽かったとのことです。(中経出版/清少納言と平安貴族と謎より)
なので、平安時代当時の十二単は、おおよそ10kgから10数kgだったと思われます。
現代でも、ウォーキングの時に身に付ける重りがありますが、十二単を着るとそれに近い状態だったということですね。
十二単の基本的な構成
ちなみに、「十二単」という名称ではあるものの、きっちり十二枚着ていたわけではありません。
基本的には、袿(うちき)を5~7枚くらい重ねていました。
まず、「単(ひとえ)」と言う肌着があって、その上に「袿(うちき)」を重ねてきます。
この袿が重なっているため、袖などから見えた袿がカラフルに見えるわけですね。
そして、袿の上に「打衣(うちぎぬ)」という艶のある袿を着て、さらにその上に「表着(うわぎ)」を着用します。
表着は一番外側に来るので、華やかで立派ものが好まれました。
で、さらにその上に着用するものがあり、これを「唐衣(からぎぬ)」と言います。
ただし、唐衣は自分より立場が上の人の前に出る際に着用するもので、普段は着ていません。
例えば、清少納言の場合は主の定子の前に出る時は唐衣を着用しますし、定子の場合は夫の一条天皇の前に出る時は唐衣を着用します。
さらに「袴(はかま)」を履いて、さらに「裳(も)」という腰のあたりから後ろにたらすものを装着します。
この裳も、唐衣と同様、身分が上の人の前に出る時に着用するものです。
こういったものを着用した状態が、十二単と呼ばれる、いわゆる女房装束の完成形となります。
清少納言や紫式部も、こういった大掛かりな服装で、定子や彰子の前に出ていたわけですね。
ちなみに、赤染衛門が書いたと言われる「栄花物語」という歴史物語に興味深い記述があるので、簡単にご紹介します。
三条天皇のお后様である妍子(けんし/藤原道長の娘)の女房たちが、とあるイベントの際に二十枚近く重ねていて、苦言を呈されるという場面があります。
多く重ねると言うのは、栄華の象徴でもあったのですが、当時の人から見ても、「そりゃやりすぎだ」という十二単の着方もあったようですね。
十二単の凄さがわる源氏物語や枕草子の記述
以上のように、十二単はかなりたくさん重ねて着用していたのがわかると思いますが、実際にどんな感覚だったのかが何となくわかる記述が源氏物語や枕草子で確認できます。
源氏物語の若菜下に登場する「女三の宮」はとても小柄な女性でした。
そんな女三の宮が十二単を着ると、それこそ十二単に埋もれてしまっていたようで
衣服だけが美しく重なっているように見えた
なんて表現されています。
また枕草子では、定子の父の藤原道隆が亡くなって喪に服している時に、内裏の外にあった鐘楼に、定子に仕えていた若い女房達がはしゃいで登っていく場面があります。
この時の女房たちは喪に服していた為、皆おそろいの色の服装だったようなのですが、裳と唐衣も装着していたことが書かれています。
つまり、十二単の完全体状態で鐘楼に登っていたわけですね。
しかしながら、さすがに自力では登れなかったらしく、下から押し上げていた女房もいたことが枕草子に書かれています。
こういった記述からも、女房装束のフル装備状態は相当なボリューミーだったことがわかり、10kg以上あったというのも頷けるのではないでしょうか?
十二単の重さまとめ
以上、今回は十二単の重さという観点でお伝えしてみました。
当時の女房達がずっと十二単の完全体だったわけではありませんが、高貴な人の前に出る時は約10~20キロ近くの服を着ていたわけで、まさしく仕事と一緒に筋トレをしていたような状態ですね。
ちょっと動けば、十分な有酸素運動になったことでしょう。
そんな女房装束の完全体である、「唐衣」や「裳」について詳しく解説した記事もあるので、興味のあるかたはぜひご覧になってみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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【参考にした主な書籍】