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拓麻呂です。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカ
強大な軍事力を持つ列強四カ国。
そんな四カ国と交戦することになった日本の一地方である長州藩(山口県)。
大国イギリス、フランス、オランダ、アメリカvs長州藩(山口県)
下関戦争(馬関戦争)
前代未聞のこの戦いは、どのような経緯で発生したのでしょうか?
そして、講和の席に臨んだ高杉晋作の秘策とは?
今回は、長州藩の方針を大きく転換させることとなった『下関戦争(馬関戦争)』に迫ります。
激突!長州藩vs列強四カ国
出典:Wikipediaより
下関戦争に至る経緯
では、まず下関戦争(馬関戦争)に至る経緯を、簡単に説明します。
ペリー率いる黒船来航により、日本では攘夷論が沸き上がりました。
攘夷とは、武力によって外国を追い払うという思想のこと。
なお、攘夷を含む幕末の思想に関してはコチラに詳しく書いています。
諸藩の志士たちが攘夷を掲げていましたが、その中心にいたのが長州藩です。
そして、朝廷内でも『三条実美(さんじょう さねとみ)』を中心とする攘夷派の公家たちが台頭。
十四代将軍『家茂(いえもち)』と後の十五代将軍『慶喜(よしのぶ)』が攘夷について建議するため京都を訪れた際、三条実美ら尊攘派公家の圧力により、『5月10日までに攘夷を決行する』という約束をします。
下関戦争と言うと、長州が勝手にやった無謀な攘夷のような印象があります。
しかし、やりかたは強引ですが一応、幕府の許可の元に実行した攘夷なのです。
長州藩がアメリカ商戦を砲撃
攘夷の決行期限である5月10日。
いよいよ長州藩が攘夷を実行に移します。
長州藩の『久坂玄瑞(くさか げんずい)』ら攘夷強硬派は、停泊していたアメリカ商船を砲撃。
奇襲を受け、何も準備していなかったアメリカ商船は退却していきます。
攘夷の意味が示す通り、武力により外国を追っ払った長州藩は歓喜に沸き立ち、その後も、下関海峡を通過する外国船に次々と砲弾を浴びせていきます。
しかし、いきなり砲撃れたアメリカやフランスも黙っていません。
後日、艦隊を率い長州藩の軍艦を砲撃します。
これにより手痛い損害を被った長州藩。
なお、この時に列強からの攻撃を守備する為に組織されたのが、高杉晋作の奇兵隊です。
しかし、列強の報復はこれで終わりではありませんでした。
襲来!四国連合艦隊!!
いぜん攘夷の姿勢を示し続ける長州藩に対し、当時の世界最強の大帝国が動きます。
大英帝国(イギリス)です。
イギリスは、『長州に攘夷など不可能であることを思い知らせる必要がある!』として、下関に軍艦を派遣。
さらに、長州から砲撃されたアメリカ、フランス、オランダも軍艦を派遣。
イギリス、フランス、オランダ、アメリカ。
強大な軍事力を擁する列強国。
対するは、日本のひとつの地方である長州藩、現代で言う所の山口県。
ここにイギリス、フランス、オランダ、アメリカvs山口県による下関戦争の火蓋が切って落とされました!!
が・・・
圧倒的な軍事力を誇る四カ国連合艦隊の砲撃により、長州藩の沿岸防備は壊滅。
長州藩は奮戦するも、あっさりと敗れ去り、列強国の上陸を許してしまいました・・。
出典:Wikipediaより
軍事力の差を、まざまざと見せつけられて長州藩なのでした。
高杉晋作参上!!
四カ国連合艦隊に叩きのめされた長州藩。
敗戦の報いとして、多額の賠償金と彦島の租借を要求されます。
その交渉の席に一人の男が現れました。
その男の名は『宍戸刑馬』。
この宍戸刑馬こそ、高杉晋作です。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
この時、脱藩の罪で投獄されていた高杉を藩が呼び戻し、宍戸刑馬という偽名を名乗らせ交渉役に抜擢したのです。
この時、高杉は外国人相手に一歩も引かぬ太々しい態度で交渉に臨みました。
『賠償金?長州藩はそんな大金持っておらん。そもそも今回の一件は幕府の命令でやたこと。金なら幕府に請求すればよかろう』
責任を幕府に擦り付ける高杉。
確かに、長州は将軍に許可を得て攘夷を決行しています。
なおこの後、賠償金は本当に幕府に請求されました・・・。
しかし四か国側は、賠償金に加え、彦島の租借を申し出てきました。
分かりやすく言うと彦島の占領です。
ここで高杉は思わぬ行動に出ます。
日本書紀を交渉の席に持ち込んで、日本神話を暗唱し始めたのです。
この時、四か国側の通訳として、アーネスト・サトーという語学に堪能が人物がいたのですが、さすがのサトーもこれには対応できなかったと言われています。
日本は神の国である。したがって、日本の国土を外国に明け渡すなど言語道断である!
高杉はこういう意味を込めて神話を暗唱したそうです。
神話の暗唱は数時間にも及び、さすがの四カ国も成すすべなく諦めたと言われています・・・
高杉晋作の奇想天外な交渉により、長州藩は大敗を喫したにも関わらず、賠償金も払わず、そして占領も受けずに済んだのです。
長州藩の方針を転換させた下関戦争
以上、下関戦争でした。
この戦いにより、長州藩は列強の軍事力を目の当たりにします。
これまで『攘夷』を強く唱えてきた長州藩でしたが、この敗戦により如何に攘夷が無謀なことを痛感します。
その影響で、長州藩では俗論派が台頭。
高杉晋作たち正義派との争いに発展し、時代は大きく動いていくことになります。
これが高杉晋作による『功山寺挙兵』です。
なお、功山寺挙兵に関してはコチラの記事をご覧ください。
薩摩藩がイギリスと一戦交えた薩英戦争などもそうですが、この時代は現代では考えられないような出来事がたくさん起こっています。
それだけ、幕末は激しい時代であり、だからこそ高い志を持って命がけで日本を憂いていたんだと思います。
彼らが今の日本を見たらどう感じるのかな?
きっと情けなく思うんじゃないかな・・?
そんなことを考えさせられる下関戦争なのでした。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。