ご来訪ありがとうございます。
拓麻呂です。
鹿児島の英雄『西郷隆盛』
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
彼は『日本人が最も好きな日本人』とさえ言われるほどの人気者です。
そんな西郷さんの人気は、持ち前の親しみやすい一面であったり、明治維新を実現した英雄としての一面だったりと様々です。
では、なぜ西郷さんが『日本人が最も好きな日本人』となり得る事が出来たのでしょうか?
それは、幼少期の西郷さんを育んだ、薩摩独自の教育制度『郷中教育(ごじゅうきょういく)』に見出すことが出来ます。
そんな『郷中教育』とは、一体どのような教育制度だったのでしょうか?
西郷さんを英雄たらしめた『郷中教育』のお話です。
薩摩の教育制度『郷中教育』
郷中教育とは?
では、郷中教育とはどのような教育制度だったのでしょうか?
今風に言うと、それぞれの町内会で実施していた教育制度のようなものです。
薩摩藩は城下町の一定範囲を『郷』で区分していました。
この『郷』が、現代で言う所の〇〇町みたいなものです。
それぞれの『郷』で暮らしている子供たちは、それぞれの『郷』で寄り集まって教育を受けました。
なので『郷中教育(ごじゅうきょういく)』と言われています。
西郷さんが生きた幕末の薩摩藩には、全部で23の郷中がありました。
郷中教育の特徴
そんな郷中教育ですが、大きな特徴があります。
子供の教育とは、普通であれば先生という存在が明確にいます。
その先生から教育を受けるのが一般的です。
しかし、薩摩の郷中教育は違いました。
郷中教育は、年長者が年少者を教育していく制度なんです。
郷中教育の構成を列記してみます。
長老(おせ)・・・24、25歳以上
二才(にせ)・・・14、15歳~24、25歳以上
長稚児(おせちご)・・・11歳~14、15歳
小稚児(こちご)・・・6、7歳~10歳
つまり・・
長老(おせ)が二才(にせ)を教育し、
二才(にせ)が長稚児(おせちご)を教育し、
長稚児(おせちご)が小稚児を教育する。
このように、年長者が年少者を教育する仕組みです。
薩摩藩がこのような教育制度を実施していたことが、屈強な薩摩藩士を生み出す原動力となります。
郷中教育を受けた薩摩藩士たちは、人材育成の重要性を身を持って体験し、その責任感を強めていったことでしょう。
郷中教育の内容
では、郷中教育の中身はどのようなものだったのでしょうか?
立場によって内容が異なりますが、列挙すると以下のようなものになります。
- 相撲
- 合戦を意識した模擬戦
- いろは歌や物語の暗唱
- カルタ
- 魚釣り
- 剣術の稽古
- 読書(太閤記や三国志などの伝記類)
現代の学校の授業とは、かなり内容が違いますが、これが主な郷中教育の中身です。
幕末とは言え、当時はまだ武士の時代ですから、教養ある強い男になる為に、このような教育をしていました。
郷中教育が輩出した人物たち
薩摩藩が明治維新の大きな原動力となりました。
そして、明治維新を成し遂げ、その後の明治新政府で活躍した薩摩藩士は、郷中教育を受けて育ちました。
西郷隆盛はもちろんのこと、西郷さんの弟の西郷従道。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
西郷さんの従弟にあたる大山巌。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
西郷さんの盟友 大久保利通。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
バルチック艦隊と激突した日本海海戦で驚異の東郷ターンを見せた東郷平八郎。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
後に陸軍大将を勤めた黒木為楨。
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
このように郷中教育は、多くの薩摩藩士を輩出しました。
郷中教育は、明治維新や日露戦争勝利をもたらす英雄たちを生み出した、奇跡の教育制度だったんです。
薩摩の郷中教育、長州の松下村塾
薩摩藩と同様に、明治維新を代表する雄藩がもうひとつ存在します。
長州藩です。
この長州藩で有名なのが、吉田松陰の松下村塾です。
松下村塾は、高杉晋作や伊藤博文など、幕末から明治にかけて日本を主導していく人物を輩出しました。
僕は、長州藩士を生み出した根底に松下村塾にあったのならば、薩摩藩士には郷中教育があったのだと思っています。
松下村塾ほど有名ではない郷中教育・・・
しかし郷中教育は、松下村塾に引けを取らない、日本を明治維新へと導く教育制度であった。
そう言っても過言ではないのではないでしょうか。
↓明治維新のまとめ記事はコチラ↓
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。