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拓麻呂です。
日本史の中でも有名な天皇として『後醍醐天皇』がいらっしゃいます。
後醍醐天皇と言えば『建武の新政(建武の中興)』がセットで思い浮かびますが、この『建武の新政』って、時代区分的にはどこに当たるのでしょうか?
この記事では、言われてみると分からない『建武の新政』が何時代なのかをお伝えしていきます。
建武の新政って何時代?
建武の新政が行われた期間
結論からいってしまうと、建武の新政が実施されていた期間には、〇〇時代という特定の名称はありません。
その理由は、期間が短すぎるからです。
建武の新政は、鎌倉時代と室町時代の間の出来事です。
足利尊氏や新田義貞あたりが鎌倉幕府を倒したのが、西暦で言うと1333年です。
これで鎌倉時代が終わります。
そして、足利尊氏が室町幕府を開いたのが、西暦で言うと1336年。
これが室町時代の始まりです。
つまり、後醍醐天皇が建武の新政を行っていた期間は、1333年~1336年しかありません。
このように、あまりにも短すぎるので建武の新政が行われていた期間には、明確な時代区分が無いのです。
あえて言うなら南北朝時代かも
このように、建武の新政が行われていた期間は、明確な時代区分がありません。
個人的な感覚では、この期間は○○時代とは言わず、ズバリそのまま『建武の新政の時代』ということが多い気がします。
しかしながら、あえて時代区分に当てはめるとするならば『南北朝時代』ではないかと思います。
南北朝時代とは、朝廷が北朝(ほくちょう)と南朝(なんちょう)に分かれて対立していた時期で、この時代には天皇が2人存在し、元号も北朝と南朝で違いました。
日本史の中でも、特にややこしい時代です。
ちなみに後醍醐天皇は南朝です。
一応、南北朝時代は1336年からとなっていて、室町時代と同じ時期に始まっています。
後に室町幕府三代将軍 足利義満が南北朝と合一させ、南北朝時代は終わります。
なので、室町時代の前半50~60年間あたりを『南北朝時代』と言います。
なんですが、1331年に始まる後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために起こした出来事をひっくるめて『元弘の乱』と言い、さらに言えばもっと前から朝廷は二派(大覚寺統と持明院統)に分かれていました。
大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)は『両統迭立(りょうとうていりつ)』という、両党が交互に天皇になる制度でなんとかやっていました。
なんですが、後醍醐天皇がごねた為、両統迭立が解消されてしまい、これが後の北朝と南朝へと変化していきます。
なので、南北朝時代の遠因は室町時代のスタートよりも前から存在していたと見れば、建武の新政は南北朝時代に属するのではないかと思います。
室町時代の難しさ
ちなみに、室町時代の後半が、日本史の中でも人気の『戦国時代』です。
室町時代は時代区分だけでみると200数十年続いているのですが、前半50~60年間が南北朝時代、後半の100年間くらいが戦国時代なので、実に不安定な動乱の時代だったという印象があります。
個人的には、日本史の中でも最も把握しづらい時代が室町時代前期~中期あたりです。
室町幕府4代将軍 足利義持から六代将軍 足利義教あたりまでは比較的安てしており、まだ良いのですが・・・。
前半の南北朝時代は元号は2つあるは、足利尊氏と弟の足利直義の間に起こった騒乱『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』や、室町時代中期ごろの応仁の乱など、いろんな人があっちに味方したり、こっちに味方したりで、とにかく勢力図が難解です。
また、南北朝時代は、今で言うヤンキーのような『ばさら大名』という人物が活躍する時代でもありました。

そして、後半はほぼ無政府状態の戦国時代。
室町時代がいかに特異な時代であったかを物語っています・・・。
まとめ
以上、建武の新政は何時代?でした。
建武の新政の期間には、明確な時代区分はありません。
ですが、あえて当てはめるとしたら南北朝時代という感じです。
なかなかややこしい時代でして、個人的には南北朝時代が一番苦手です・・。
この時代が不人気なのも、このややこしさが原因な気がしています。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。