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『清少納言に恋した男』拓麻呂でございます。
今からおよそ千年前の平安時代に書かれた枕草子。作者は、ご存知、清少納言。
この枕草子は平安時代の情景や価値観を、現代人に届けてくれる大変興味深い古典と言えます。
今回はご紹介するのは、清少納言の食事に対する価値観。
どうも彼女は、男女一緒の食事を嫌っていたようなんです。現代の価値観だとデートプランで食事って重要ですよね。お洒落なお店探しに苦労した男性も多いのではないでしょうか?
古文? 品詞分解? 歴史的仮名遣い?
そんな専門知識が無くたって『枕草子』は楽しめる!!
では、清少納言は男女一緒の食事をどのように思っていたのでしょうか?早速見ていく事にしましょう。
~平安時代の男女の食事~
女性の所に食事をしにくる男
まず、清少納言はこのように言っています。
『宮仕えしている女性のところへ食事にくる男は、本当にみっともないっ!!』
いきなりの全否定です・・・そして、この後。
『そんな男に食事を出す女性も大っ嫌いっ!!』
どうやら、清少納言は『食事に来る男』と、そんな男に『食事を出す女』に対し嫌悪感をあらわにしているようです。
まだまだ続く清少納言の嫌悪感
この後も彼女の怒りはおさまりません。
『女性が愛情を注いで作ってくれた食事に手を付けないのは失礼だから、男性も仕方なく食べているんでしょう』
さらに、彼女はこう言い切ります。
『私だったら男性がいくら酔っぱらって夜更けに訪ねてきたとしても、湯漬けだって食べさせてあげない』
そして最後の捨てゼリフ
『ひどい女だと思われて、その後男性が来なくなっても私は全然構わない!!』
清少納言の嫌悪感はどこから来ているのか??
では、彼女がここまで男女の食事に嫌悪感を示す理由は何なのでしょうか?
これには、男女の出会いの場に対する清少納言の想いと、平安時代の食事に対する価値観があるようです。
では詳しく見ていきましょう。
まず、清少納言の考える男女の出会い(デート)について。
この時代は夜な夜な男性が、好意を寄せる女性の住まいに通うという文化がありました。結婚後にも同居はせず、外が暗くなってから男性が女性の元を訪れます。これを『通い婚』と言います。
つまり清少納言としては、せっかくの男性が合いに来てくれた大切な夜はロマンチックに過ごしたい、と言ったような願望があったようです。
次に食事に対する価値観について。
食事をするという行為は人間であれば、ごく当たり前のことです。それは平安時代も現代も変わりません。しかしながら食事とは、人間の三大欲求の一つ『食欲』によって行う行為でもあります。
平安時代の価値観として『食欲』によって行う食事は、人間の欲望によって引き出される、卑しい行為としての認識があったのです。
つまり清少納言は、食事という卑しい欲望が、ロマンチックに過ごしたい大切な夜に似つかわしくないと考えていました。
意外と現代も同じ?食事の価値観
いかがだったでしょうか?
現代ではデートの食事は当たり前、むしろデートプランでは重要な部分です。ところが清少納言は全否定です。
これは一見、現代との価値観の違いと捉えそうになりますが、案外そうでもないのです。
食事と言う行為は時と場所を選ばず行えるものではありません。
ちょっと極端な例ではありますが、葬式の最中に弁当を食う人はいないでしょう。食事をする場所はどこでも良いという訳ではないのです。
では山手線の車内で弁当を食べている人は、周囲にどのように思われるでしょうか?おそらく、何とも思わない人と、白い目で見る人に分かれると思います。僕は清少納言の食事に対する価値観は、現代で言うところの『電車の中で弁当を食う人』に近いものがあると考えています。
前述したように、彼女は食事を出す女性に対して嫌味を言っています。つまりデートの食事を卑しいと思っていない女性もいたことが分かります。
『デート』というシチュエーションが『電車の車内』となっただけで、食事を卑しいと捉える価値観は現代でも多少残っているのです。
参考:枕草子 一九六段『宮仕へ人のもとに』より
清少納言もやっぱり女性
今回は平安時代の食事に対する価値観を見てみましたが、ひとつ大事なことを掘り下げていませんでした。
それは、デートをロマンチックに過ごしたい清少納言の乙女心。
この枕草子一九六段は、一見、清少納言のヒステリーかと思われるような内容なのですが、その裏には彼女の乙女心が見え隠れしているのです。
毒舌で何でもズバズバ言う清少納言ですが、こういった側面から見ると案外かわいらしい女性だと思えてきませんか?
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では、今回はこの辺で!ありがとうございました。