織田信長の妹『お市の方』の最期とは?辞世の句は?

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戦国時代の女性たち

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

織田信長の妹で、戦国時代のNo.1美女とも言われている『お市の方』。※以下『お市』

 

最初は北近江(滋賀県北部)の戦国大名『浅井長政』に嫁ぎ、長政亡き後には『柴田勝家』に再嫁したことで知られています。

その勝家とともに、お市は人生を終えることになるのですが、その最期はどのようなものだったのでしょうか?

戦国時代という混乱の時代の、強い女性の散り様をお伝えします。

 

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お市の最期

夫 柴田勝家の動き

お市にとっては2番目の夫である柴田勝家。

織田信長が本能寺の変で自害した後、その後釜を狙って対立したのが勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。

 

勝家と秀吉は、天正11年(1583年)に賤ケ岳の戦いで激突。

お市が勝家に嫁いだのはその前年でした。

 

信長が亡くなったあと、秀吉は光秀を倒し、さらに信長の後継者を決める『清須会議』においても秀吉に主導権を握られ、勝家の立場は後退してしまいました。

対立した勝家と秀吉は、賤ケ岳の戦いへと突入。

勝家陣営だった前田利家が寝返るなどし、勝家軍は総崩れとなり、居城の北ノ庄城へと退きました。

 

この後に、お市の最期がやってくるのです。

 

北ノ庄城にて自害

北ノ庄城に退いた勝家は、三千人の城兵とともに籠城。

しかし、援軍も見込めず、圧倒的な兵力で城を包囲されてしまい、もはや打開策はありませんでした。

 

勝家は城内で盛大に酒宴を催した後、お市と3人の娘(浅井長政の遺児で茶々、初、江の三姉妹)を投降させようとしましたが、お市はこれを固辞。

夫の勝家とともに、燃え盛る城内で自害して果てました。

一説には、覚悟を決めたお市を、勝家が刀で刺し殺めた後、自らの腹を十文字に掻っ捌いたとも言われています。

 

享年37

辞世の句は『さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな』

北ノ庄城が落城する日の朝に、勝家とともに詠んだと伝わっています。

 

乱世に翻弄され、多くの困難に立ち向かってきた生涯でした。

 

戦国時代の女性たちの強さ

戦国No.1美女とも言われるお市。

しかし、そんなイメージとは裏腹に、その最期は壮絶なものでした。

 

お市はもともと浅井長政に嫁いでおり、その時に三姉妹を授かっています。

しかし、長政が信長と敵対関係となり、この時も居城 小谷城に籠城し、最終的には落城するという悲劇に見舞われています。

この時に長政は自害したものの、お市と三人の娘は城から脱出しました。

 

小谷城の落城からおよそ10年後、今度は北ノ庄城で、同じような状況になりました。

今回も娘と逃げる選択肢がありました。

勝家も、それを促しました。

しかし、お市は逃げず、自害する道を選びました。

 

女性とはいえ、敵に城を囲まれた挙句、脱出して庇護されるという屈辱を2度も味わうのは、彼女のプライドが許さなかったのかもしれません。

 

乱世というのは、本当に壮絶なものだと思いますし、平時に生きる現代人には到底理解ないほどの覚悟を持っていたんだとうなと感じます。

 

まとめ

以上、お市の最期と辞世の句についてでした。

 

お市もそうですが、細川ガラシャの最期などを見てもそうですが、この時代は女性も命がけで、本当に逞しく生きていたんだなと実感します。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。