井伊直弼は幕末の悪者なのか?桜田門外の変が起こった理由と真の評価

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

幕末に多くの人物が弾圧を受けた『安政の大獄』

この弾圧により吉田松陰や橋本左内など、多くの志士が犠牲になりました。

そんな『安政の大獄』を主導した人物。

井伊直弼(いい なおすけ)

江戸幕府の大老として、独断で政治を主導していった井伊。

そして、彼の専横に反発する水戸藩士(一部薩摩藩士)たちに襲撃され最期を迎えた井伊。

その最期を迎えた事件が有名な『桜田門外の変』です。

桜田門外はなぜ起こったのか?

井伊直弼の本当の評価とは?

今回は大老 井伊直弼の志に迫ってみたいと思います。

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英雄 井伊直弼

井伊直弼の生い立ち

井伊直弼は彦根藩 井伊家の14男として生まれます。

井伊家は戦国時代の徳川四天王『井伊直政』の家系です。

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14男なので、もちろん家督を継げる立場ではありません。

ところが兄であり、彦根藩主でもある『井伊直亮(いい なおあき)』の跡継ぎ『直元(なおもと)』が早世した為、直弼が直亮の養子となり、後継者に指名されます。

そして、直亮の逝去後、36歳で直弼は彦根藩主となります。

この頃の幕府は、水戸藩の『徳川斉昭(とくがわ なりあき)』や越前福井藩の『松平春嶽(まつだいら しゅんがく)』らの雄藩が政治介入し攘夷を唱えていました。

特に水戸の徳川斉昭の影響力は絶大で、幕末に活躍した多くの志士が水戸に憧れを持ち、尊王攘夷思想の聖地のようになっています。

これに対し、開国派だった井伊直弼が反発。

これが桜田門外の変にに繋がる出発点になります。

井伊直弼の独断専行

井伊直弼が桜田門外の変で襲撃されるい至る経緯として、大きく2つの政治問題があります。

それぞれの政治問題を見ていきましょう。

政治問題① 将軍継嗣問題

この当時、将軍継嗣問題が発生していました。

つまり、次の将軍を誰にするか?ということです。

体が弱かったと伝わる13代将軍 家定の次の将軍は誰が相応しいのか?

一人は『一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)、後の15代将軍 徳川慶喜。

もう一人は『徳川慶福(とくがわ よしとみ)』、後の14代将軍 徳川家茂。

当初、時の天皇『孝明天皇』の信任も厚かった一橋慶喜を時期将軍に立てる動きがありましたが、大老 井伊直弼はこれに反発。

慶福擁立派だった井伊直弼は、天皇の許可を得ることなく大老としての強権を発動。

徳川慶福を独断で時期将軍の座に据えてしまいます。

これにより、慶喜を推していた『一橋派』からの反発を招きます。

この『一橋派』に属していた人たちの弾圧が『安政の大獄』です。

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政治問題② 日米修好通商条約

1853年、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀にやってきます。

ペリーの狙いは日本の開国。

翌1854年、日本は再びやってきたペリーと『日米和親条約』を締結します。

しかし『孝明天皇』が攘夷派であったため、アメリカと条約を結んでしまった幕府に対し、攘夷思想を唱える志士たちは反発します。

その後、今度はハリスという人物が日本を訪れ、通商条約の締結を迫ってきました。

通商条約とは、国同士の経済発展を円滑にするための条約です。

しかし、孝明天皇は通商条約に反発。

が・・・

幕府の実権を握っていた井伊直弼は、またしても天皇の許可を得ることなく、通商条約の締結を断行。

これが『日米修好通商条約』です。

このように、井伊は周囲の意見など全く意に介さず、独裁とも言える政治を断行していきました。

桜田門外に散る

1860年3月3 午前9時。

井伊直弼を乗せた駕籠は、雪の降り積もる中、江戸城に向かっていました。

駕籠を運ぶ者など、井伊の行列約60名が、江戸城の桜田門外 杵築藩邸の横を通りかかったその時・・・

井伊の独断専行による政治に不満を持った、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名の計18名が、井伊直弼の駕籠に襲い掛かりました。

井伊の乗る駕籠に、何度も刀を突きたてる浪士たち。

負傷し息も絶え絶えの井伊は、駕籠から引きずり出され首をはねられました。

享年46

降り積もる真っ白な雪は赤く染っていました。

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井伊直弼はなぜ独断で政治を行ったのか?

このように、水戸藩士の恨みを買い、最後は凶刃に倒れた井伊直弼。

なぜ井伊は、独裁に近い形で政治を行ってしまったのでしょうか?

まず念頭に置かなければいけないこと。

それは、外国の脅威が迫ってきた国難の時代。

それが幕末です。

圧倒的な武力を持つ欧米列強に対し、日本はどういった選択をしなければならなかったのか?

日本の政治の中枢である江戸幕府は、その選択をしなけれないけない。

それを誰がやるのか?

一歩間違えば、日本が外国に占領されるかもしれない状況。

それでも、幕府の誰かが決断しなければならない。

その責任を一身に背負った人物が井伊直弼です。

言い方を変えれば、泥水を全部かぶったのが井伊直弼です。

では、なぜ井伊が全ての責任を背負わなければいけなかったのか?

それが、戦国時代から徳川に仕える、井伊家の立場と誇りです。

井伊直弼の先祖は、徳川家康に仕えた徳川四天王『井伊直政』です。

井伊直政は、家康の天下を決定づけた『関ヶ原の戦い』でも、真っ先に先陣を切って敵に突撃していった勇将です。

徳川家を守る為、先陣切って行動で示す。

徳川家を守る為なら、命をかけて井伊家が盾となり、刀となる。

それが、幕府における井伊家の立場であり、大きな誇りなんです。

井伊直弼はヒールなのか?

幕末史の英雄は多くの場合、坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作などの名前が上がります。

確かに彼らの活躍により、明治維新が実現したのは事実です。

ですが、井伊直弼亡き後の歴史を見てみてください。

結果的に明治維新の後、日本は開国し外国との交易を始めています。

黒船がやって来た時、諸藩が攘夷を唱える中、開国を唱えていたのは誰でしょうか?

井伊直弼です。

幕府を守る、それは日本を守るということ。

外国の脅威という国難に際して、日本を何とかして守ろうとした志は、幕末の志士たちと何ら変わりはありません。

違うのは、幕府の人間であるかどうか?

それだけです。

結果的に幕府は倒れ、明治維新が実現したため、幕府の大老として大鉈を振った井伊は、歴史的ヒールにされることが多いです。

ドラマなどでも、いつも冷たい非情な人間として描かれています。

ですが、それは『安政の大獄』という井伊の非情な一側面を切り取ったものに過ぎず、彼の心にも日本を守ろうとした大いなる志は間違いなく存在しています。

もし、幕末に徳川が勝利していれば、後世の評価は井伊が英雄で、幕末の志士たちがヒール役になっていたでしょう。

井伊直弼は、吉田松陰にも、西郷隆盛にも、坂本龍馬にも負けない英雄であることは間違いありません。

これが、井伊直弼の本当の姿であり、評価であると僕は考えています。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。


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